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[[ボーア戦争]]と2つの世界大戦で、顔・頭・腹・足首・臀部・耳を撃たれ、左目と左手を失った。医者が負傷した指を切断しないから自分で噛み切った。幾度もの死地を潜り抜け、事故で四散した[[航空機]]から敵領土まで気絶後に遠泳し、[[捕虜収容所]]から[[トンネル]]を掘って脱出した。戦後、おびただしい量の[[榴散弾]]摘出手術を受ける。老後は狩猟と釣りを楽しんだ。
 
戦後、「一言で言うと、私は戦争を楽しんだ。」と言った<ref name="Happy Odyssey, p. 89">Happy Odyssey, p. 89</ref>。「政府は話し合いによる解決が良いと言っているが、現実的に決定力を持つのは力であり、力は手放す事など人々には出来ない。人々はペンは剣より強いと言うが、しかし私はそのどちらの武器を使うべきか知っている。」と自伝に書き残したHappy Odyssey'' p. 271</ref>
 
[[第二次世界大戦]]後、[[ウィンストン・チャーチル]]の個人的代理として[[カイロ会談]]に出席した。[[オックスフォード人物事典]]では彼のことを、「黒い眼帯と空の袖によって、エレガントな[[海賊]]に見え、それが彼の[[伝説]]を象徴している。」と書いている<ref name=ODNB>Williams, ODNB</ref>。
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==生涯==
===前半生===
エイドリアン・カートン・デ・ウィアートは貴族 Leon Constant Ghislain Carton de Wiart (1854–1915)の長男として、[[ブリュッセル]]で生まれた。1880年5月5日の事である。同世代の人たちは、彼がベルギー王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルト2世]]の非嫡出子であると広く信じられていた<ref>[[Michael Korda]], ''Hero: The Life and Legend of Lawrence of Arabia'' ISBN 978-0-06-171261-6, p. 236</ref> 。彼は幼少期をイングランドとベルギーで過ごした。
 
アイルランド人の母が亡くなった時、当時6歳だった彼は父親に国際法を学ぶ為に[[カイロ]]に移住するように進言した。彼の父親は裁判所の判事だった、よくエジプト政府の集まりに参加し、カイロ電気鉄道の理事も務めていた。カートンはローマカトリックだった。彼はここでアラビア語を学んだ。
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1891年にイギリス人の継母は、イングランドのローマカトリック礼拝スクールの寄宿学校に彼を送った。そこから彼は[[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]に通ったが、1899年のボーア戦争へイギリス軍人・偽名"Trooper Carton"(25歳、実際は19歳)として参加し大学から去った。
 
南アフリカでの戦争の早い段階で、彼は腹や股の付け根に怪我を負い傷病兵として家に送還された。そこで父に大学を抜けた事がばれてしまった。父は激怒したが、彼を軍に留めさせた。相次ぎオックスフォードで短い期間だったが、彼の友人だった[[:en:Aubrey Herbert|オーブリー・ハーバート]]へ第二帝国軽装騎兵隊の委任状が渡された。1901年9月14日南アフリカの作戦中に第4ドラグーンガードの少尉として正式に任官した彼と再会した<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/27354/pages/6049 London Gazette, 13 September 1901]</ref>。1902年、カートンはインドに移り、スポーツ、特に射撃と猪狩りに興じた。
 
===エドワード朝での軍隊の生活、趣味、性格===
ボーア戦争で受けた傷は彼に体力作りへの強い欲求を植え付け、彼は走り、ジョギングし、歩き、そしてスポーツに打ち込ませた。彼の周りの男性社会では『下品な言葉の世界記録保持者になるべき愉快な奴』と言われていた<ref>''To War With Whitaker, The Wartime Memoirs of the Countess of Ranfurly'' p 123</ref>
 
彼の連隊は南アフリカに移動後、1904年7月にsupernumerary中尉(傷病で軍籍を離れる可能性のある中尉)に昇進した。そして7月の後、Sir Henry Hildyard最高司令官の副官に付いた。彼はこの期間から1914年までを『全盛期』だったと言っている<ref name="Happy Odyssey">''Happy Odyssey'', "Heyday", the title of chapter 3</ref>。副官としての彼の正式な義務は[[ポロ]]の時間と彼の趣味以外の事に当てられた。
 
1907年、彼は8年間英国陸軍の軍務に就いていたが、ベルギーの国籍を残していた。 9月13日、彼はエドワード7世に忠誠の誓いを立て、正式に英国国籍に帰化した<ref name="London Gazette, 1 November 1907"/>
 
カートン・デ・ウィアートはヨーロッパ貴族の集会によく参加していた。彼の二人の従兄弟のうち[[アンリ・カルトン・ドゥ・ヴィアール]]伯爵は1920年から1921年にベルギーの首相に就任し、エドモンド・カルトン・ドゥ・ヴィアール男爵はベルギー国王の政治秘書でSociété Générale de Belgique会社の社長だった。休職しながら、彼はボヘミア、オーストリア、ハンガリー、バイエルンの国のカトリックの貴族階級と接触しながら、中央ヨーロッパ全体を広く旅した。
 
イギリスに帰国後、彼は高に有名なBeaufort's Hunt[[ボーフォート爵と顔つなぎしの狩猟]]で、次期陸軍元帥と次期空軍元帥と会談に顔つなぎした。彼は1910年2月に大尉に昇進した<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/28355/pages/2411 London Gazette, 8 April 1910]</ref>
 
1908年、彼はオーストリアの名門[[フッガー家]]の長女で女侯爵のFriederike Maria Karoline Henriette Rosa Sabina Franziska Fugger von Babenhausen (1887 Klagenfurt – 1949 Vienna)と結婚した。彼女の父親であるカール=ルートヴィッヒ王子は、[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の家令を勤めている。彼らは二人の娘をもうけた。上の娘アニータは、ジャーナリスト[[:en:Anthony Loyd|アンソニー・ロイド]]の祖母である。
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第一次世界大戦の幕が開けた時、カートン・デ・ウィアートはイギリス領[[ソマリランド]]へのルートで、『マッド ムラー(狂ったイスラム教教師)』と呼ばれる[[サイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサン]]による抵抗活動を受けていた。カートン・デ・ウィアートはソマリランドラクダ部隊に出向していた。この軍団の参謀である[[ヘイスティングス・イスメイ]]は、後に部隊の軍団長になり、チャーチルの軍事顧問、さらにNATO初代事務総長にもなる。
 
敵の[[シンビリス山]]砦攻撃では、カートン・デ・ウィアートは顔に二発被弾して、目と耳の一部を失った。1915年5月、DSO{{enlink|Distinguished Service Order}}を叙勲された<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/29163/supplements/4753 London Gazette, 15 May 1915]</ref>
 
1915年2月では、彼はフランスへの汽船に乗船した。西部戦線で連続的に3歩兵大隊と旅団を指揮し戦闘に参加した。彼はこの戦争で7発以上被弾し、左手を失い。医者が切り離しを拒否した何本かの指を自分で引きちぎった<ref>''Nemesis'' (2007) Hastings, M. HarperCollins Press, London. ISBN 0-00-721982-2 ISBN 978-0-00-721982-7, p.446</ref>
 
[[ソンムの戦い]]では頭蓋骨と足首を撃ち抜かれ、[[パッシェンデールの戦い]]では臀部を撃ち抜かれ、[[カンブレーの戦い]]では足を撃ち抜かれ、[[アラス]]では耳を撃ち抜かれた。彼は怪我の療養にSir Douglas Shield私立病院に行くことになった。
 
カートン・デ・ウィアートは1916年2月15日から3月25日まで一時的に少佐に昇格した<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/29571/supplements/4539 London Gazette, 5 May 1916]</ref>。続いて、1917年1月戦時少佐に昇格し、一時的に中佐に昇格した<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/29886/supplements/18 London Gazette, 1 January 1917]</ref>。 1917年初旬ベルギーからan Officer of the Order of the Crownを授与<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/30030/supplements/3824 London Gazette, 20 April 197]</ref>。6月、戦時中佐に昇格し、一時的准将に昇格<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/30111/supplements/5464 London Gazette, 4 June 1917]</ref>。7月、ドラグーン ガーズの(戦時でも一時的な階級でもない)少佐に昇格<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/30375/supplements/11639 London Gazette, 9 November 1917]</ref>彼は1918年3月にベルギー王国から[[:en:Croix de Guerreguerre (Belgium)]]を授与された。6月、a<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/30568/supplements/3095 CMGLondon inGazette,8 the King's Birthday HonoursMarch 1918]</ref>、それから6月には国王誕生日叙勲者名簿でCMG([[聖マイケル・聖ジョージ勲章]])授与叙勲された<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/30716/supplements/6453 London Gazette, 31 May 1918]</ref> 終戦間近の11月8日、一時的准将位と旅団の指揮権が与えられた<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/31321/supplements/5479 London Gazette, 29 April 1919]</ref>
 
戦後、彼は「率直に言って私は戦争を楽しんでいた・・・戦争がこんなにも楽しいのに、なぜ人々は平和を望むのだろうか?」と言った<ref name="Happy Odyssey, p. 89"/>
 
====ビクトリア十字勲章====
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===戦後、ポーランドでの作戦===
戦後、南アフリカの[[ルイス・ボータ]]将軍指揮下、ポーランドを[[ポーランド第二共和国]]として復活させるイギリス軍事作戦{{enlink|British Military Mission to Poland}}の将軍として参加した。1919年{{enlink|King's Birthday Honours}}で、[[バス勲章]]を授与<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/31370/pages/6790 London Gazette, 30 May 1919]</ref>。短い期間で、ボサ将軍と交代した。
 
ポーランドは占領していた国と開戦し独立する為に決死のサポートを必要としていた。
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彼は[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相とより親交を深めた。飛行機事故でリトアニアに短期間拘束された後、戦争担当大臣[[ウィンストン・チャーチル]]へ報告するためイギリスに移動した。彼はパデレフスキ ポーランド首相の『モスクワに向かった[[アントーン・デニーキン]]指揮下のロシア[[白軍]]の攻撃は失敗する』という予測をチャーチルに渡した。そのレポートの内容は、その後すぐに現実となった。チャーチルはロイド・ジョージ首相に比べ親ポーランドとなり、首相の反対を押し切り補給物資の手配を行った。
 
1920年7月では、カートンは王にADCを授与され、そして戦時大佐に昇進した<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/31993/supplements/7835 London Gazette, 23 July 1920]</ref>。ワルシャワの門に[[赤軍]]が居た時に彼は動いた。観測隊が外に動いた時、赤の騎兵隊から攻撃を受けた。そして銃撃戦が開始された。1921年ポーランドは戦争に勝利し、イギリス軍事作戦は終了した。この年1月、彼はポーランドからlocal rank of major-generalを授与された<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/32175/supplements/12695 London Gazette, 28 December 1920]</ref>。1922年6月、正式に大佐に昇格した<ref>http://www.london-gazette.co.uk/issues/32721/pages/4645</ref>。1923年4月辞任<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/32811/pages/2515 London Gazette, 3 April 1923]</ref>。12月、軍を引退して栄誉の特進で、少将に昇格した<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/32898/pages/470 London Gazette, 15 January 1924]</ref>
 
最後の副官だった王子は、彼の叔父が共産主義者に殺された時、ポーランドの東側の土地50万エーカー (2,000km²) を引継いだ。友達になったとカートンはアイルランドよりも大きい、水鳥で有名な大湿地エリア、プリピャチ沼沢地を貰った。「私は興味を失うこともなく15年間毎日、湿地でハンティングをして楽しく暮らしていた」
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====ノルウェー戦役====
{{Main|ナムソスの戦い}}
1939年の秋に陸軍に任命され、カートンは大佐として復隊した。彼は11月に一時的に少将に昇進した<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/34753/supplements/8305 London Gazette, 12 December 1939]</ref>。1940年4月、時間を惜しむぐらい短い準備で、イギリス中部の61st 歩兵師団を指揮し、イギリス-フランス共同軍が占領したノルウェイ中部の[[ナムソス]]という街に召喚された。彼への命令は、少し南に距離を置いたÅndalsnesに上陸し南側から進軍、海軍の攻撃と連携し、[[トロンハイム]]を取り戻すことだった。
 
彼は軍が到着する前に場所を確認する為にナムソスに向かった。[[ショート サンダーランド]]飛行艇が着水したとき、ドイツの戦闘機に襲われ副官が負傷し、避難しなくてはならなくなった。その後、ドイツ空軍が爆撃する中、(トロンハイムに北側から挟撃をかけるはずだった)フランスアルペン隊が、爆撃と港湾施設の不備でスキーのための皮や輸送のための(馬とロバの優性交雑種)[[ラバ]]無しでナムソスへ上陸。フランス軍は、この短い戦役をナムソスに留まり対応することとなった。イギリス軍は、スキー、火砲、補給無しで上陸した。彼らには航空支援すら無かった(イギリス軍参謀長が怖気づいたため、占領作戦は陸軍のみが他国へのパフォーマンスとして行うことになった)。
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カートンはすぐ侵略に対する防衛として、北アイルランドに移した第61師団の指揮官にポストバックされた。カートンは、高い練度で第61師団を運用しましたが、最高司令官として中将ヘンリー・ロイズパウネルが北アイルランドに就いた時、カートンの運用の仕方は余りにも古いと指摘された。
 
1940年11月に一時的に臨時少将に昇格<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/35002/supplements/6802 London Gazette, 29 November 1940]</ref>、彼は1941年4月5日に英国ユーゴスラビア作戦軍の長として任命されたが、簡潔に言うと、まったく働くことが出来なかった。ヒトラーはユーゴスラビアへ侵略準備していたため、ユーゴスラビアは英国に助けを求めていた。カートンはユーゴスラビア政府と交渉するため[[ビッカース ウェリントン]]爆撃機で[[セルビア]]、[[ベオグラード]]に移動した。
 
マルタで給油後の航空機は敵地を北へ南へと移動しカイロに向かった。イタリア支配下のリビア沖 約1.6kmで両方のエンジンが故障し着水した。 カートンは気絶したが、流れ込んだ冷たい水が彼を外へ運び出した。 飛行機は四散し沈没したので、彼と残ったスタッフは岸まで何マイルも泳ぐことを余儀なくされた。 その後、彼らはイタリア当局によって捕縛された。
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カートンがこれ以上この戦争に関わらないと約束したならば、送還するというものだった。
 
ランフリー女侯爵ハーマイオニーから、カートンの妻宛の手紙で、収監中のカートンの様子が説明されている。"...下品な言葉の世界記録を所持してるかもね。"と彼が言ってる"...面白い人ね"。"...延々と彼は面白い話をしていた。彼は本当にいい人だ- 。ほんとうに素直にそう思う"と書き綴っている<ref>Ranfurly p123</ref>
 
そして、驚くべき展開が起きた、1943年8月にカートンは刑務所から連れ出され、ローマに移され、戦争を終了する為、英国へ交渉人と共に停戦条件締結のメッセージを運んで欲しいとイタリア政府に内密に頼まれた。カートンはイタリアの交渉人であるGiacomo Zanussi将軍と同行し、リスボンで連合国と交渉の渡りをつける事を望まれた。
 
しかし、カートンは(交渉人の)保護に、一般市民の服を必要とした。イタリアの仕立て屋に不思議がられながら、彼は適切な判断であると強調した。彼らが用意する "血塗られたジゴロスーツ"なんて着るつもりは無かった<ref>Happy Odyssey, p. 226</ref>。自伝「ハッピーオデッセイ」の中で、最善の結果を出す為に私の人生の中で一番のスーツが必要だったと説明している。
 
リスボンに到着後、カートンはイギリスとの連絡路を1943年8月28日までつくり開放された。
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====中国作戦====
[[File:CairoConferenceParticipants.jpg|thumb|Carton de Wiart in the Cairo Conference, behind [[Soong May-ling]].]]
カートンがイングランドに帰還して1ヵ月も経たない頃、チェッカーズにあるイギリス首相の公式別荘へ一晩招待された。チャーチルは「カートンに個人的な理由で、代理として中国に行ってもらえないかと考えている」と相談された。彼は10月9日に臨時中将に昇進し<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/36210/supplements/4551 London Gazette, 15 October 1943]</ref>、1943年10月18日にインドの空へ飛んだ。
 
中国での宿泊施設の準備が出来ていなかったので、インドにしばらく逗留し、ジョン=ケズウィック([[ケズウィック家]])、[[ジャーディン・マセソン]]、大中華貿易帝国の長に中国の立場について、特に正確な大班(タイパン:中国語で経営に携わる者、責任者、支配人等のこと)についての説明をもらっていた。彼は総督アーチボルド=ウェーベル卿とインド駐留英国陸軍総指揮官[[クルード・オーキンレック]]、またイギリス特殊戦の創始者[[オード・ウィンゲート]]にも会った。
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彼は定期的に英国当局と連携するためにインドに訪れた。彼の古くからの友人、リチャード·オコナーは、イタリアの捕虜収容所から脱出し、インド東部におけるイギリス軍の指揮官となっていた。ベンガル知事、オーストラリア男爵リチャード·ケーシーとは良い友人になった。彼の妻は第一次世界大戦で通院していた病院の一つでカートンを看護してくれていたのだ。
 
1944年10月9日に、カートンは、一時的な中将へ戦争での実質的なランクは少将に昇進した<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/36769/supplements/4963 London Gazette, 31 October 1944]</ref>。中国の状況について戦時内閣で報告するため1944年12月に帰国した。彼は1945年の新年の栄誉リストでKBEをナイト爵に叙された<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/36866/supplements/10 London Gazette, 1 January 1945]</ref>。彼は1945年6月に労働党政権の党首になった[[クレメント・アトリー]]は、中国にまだ滞在するのか尋ねられた。
 
カートンはビルマ前線の戦列に配属され、[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]司令官、提督サー・[[ジェームズ・サマヴィル]]に会った後、彼は1945年に[[オランダ領東インド]]の[[サバン]]へ、日本の戦闘機と英国の空母航空機との間の空戦を含めた砲撃のため[[クイーン・エリザベス (戦艦)|クイーン・エリザベス]]ブリッジのフロントシートを与えられた。
167行目:
カートンの報告の良い部分は、中国共産主義者の増加力について調査されてた事だ。
 
歴史家マックス・ヘイスティングスはこう書いている。『原則として、すべての共産主義者を軽蔑し、[[毛沢東]]は『狂信者』と非難し、さらに加えて「私は彼の意味する仕事を信じることができない」、彼は「蒋介石以外の中国の支配者は存在しなかった」と英国の政治家に語っていた。』<ref>''Nemesis'' (2007) Hastings, M. HarperCollins Press, London. ISBN 0-00-721982-2 ISBN 978-0-00-721982-7 p.446. The "I cannot believe he means business" quotation is referenced to [[The National Archives]] [http://www.nationalarchives.gov.uk/catalogue/displaycataloguedetails.asp?CATID=3508732&CATLN=6 FO 371/F6140/34/10]</ref>カートンの思い出に残る交流夕食会で、政治的な理由で日本との戦いを維持する為に毛沢東批判のプロパガンダ演説を中断し、共に夕食会に参加してた毛沢東に会った。毛沢東をすこしの間唖然とした後、笑っていた。
 
1945年8月の日本降伏後、カートンは正式な降伏に参加するためにシンガポールに飛んだ。北京に到着後、イギリス首相の個人的代理人に蒋介石、Julian Ameryと今や開放された国民党政府の首都 南京へ同行した。
 
任期の終わりごろには、東京を訪れて[[ダグラス・マッカーサー]]と会談した。彼は蒋介石から継続して仕事の申し出を貰っていたが、もう66歳で引退する準備ができていた。カートン·ド·ウィヤールは名誉ある中将の階級で、1947年10月に引退した<ref>[http://www.london-gazette.co.uk/issues/38396/pages/4853 London Gazette, 7 September 1948]</ref>
 
====引退後====
[[フランス領インドシナ]]を経由して帰宅の途中、カートンは司令官のゲストとして[[ラングーン]]に逗留した。階段を下りて来たところ、ココナッツマットで滑り、いくつかの脊椎骨と背中に怪我をして気絶した。最終的にイギリスが作った病院で徐々に回復することとなった。医師はそこで彼の古い傷から、信じられないほどの量の[[榴散弾]]を抽出することになった。彼は回復し、その後、親戚を訪問するためにベルギーに行きました。
 
1949年に彼の妻は死亡し、1951年71歳の時、彼はRuth Myrtle Muriel Joan McKechnie(1903年後半に生まれ、彼女は102歳の時2006年1月13日に死亡)<ref>Obituary in Daily Telegraph, 17 January, 2006</ref>、ジョーン・サザーランドとして知られる女性と結婚、鮭釣りと猟に没頭するためアイルランド、[[コーク州]]、Killinardish、Aghinagh Houseに定住することを決めた。彼女は23歳年下だった。
 
エイドリアン・カートン・デ・ウィアートは1963年6月5日に83歳で亡くなった。彼と彼の妻、ジョアンは、MacroomのメインストリートすぐそばのCaum教会の墓地に埋葬されている。墓は彼らが生前住んでいたAghinagh Houseのちょうど外側にある。カルトン・ド・ウィヤールの遺思でイングランドに3496ポンド英貨、アイルランドに4158ポンド英貨を検認した。