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'''エンマ・バルダック'''({{fr|Emma Bardac}}, [[1862年]] – [[1934年]])は、[[フランス]]の[[声楽家]]。
 
[[世紀末|19世紀末]]の[[パリ]]で歌手であった。
17歳に銀行家のシジスモン・バルダック(Sigismond Bardac)と結婚し、子を2人もうけた。後のドビュッシーの教え子ラウルとエレーヌである。後に[[ガブリエル・フォーレ]]と[[クロード・ドビュッシー]]の両方から求愛され、元夫と離婚し、後者と再婚した。[[世紀末|19世紀末]]の[[パリ]]で歌手であった。フォーレはエンマとその娘エレーヌのために組曲『[[ドリー (フォーレ)|ドリー]]』を、エンマのために歌曲集『[[優しい歌 (ヴェルレーヌ)|優しい歌]]』を作曲した。しかし、フォーレとの愛人関係を終えてから、[[1908年]]にドビュッシーと結婚した。ドビュッシーはエンマとの間に儲けた一粒種の娘クロード=エンマをシュシュ ('Chou-Chou') と呼んで溺愛し、この娘のために組曲『[[子供の領分]]』([[1909年]])を作曲した。
 
17歳で銀行家のシジスモン・バルダック(Sigismond Bardac)と結婚し、子を2人もうけた。後のドビュッシーの教え子ラウルとエレーヌである。後に[[ガブリエル・フォーレ]]と[[クロード・ドビュッシー]]の両方から求愛され、元夫と離婚し、後者と再婚した。
 
フォーレはエンマとその娘エレーヌ(愛称ドリー)のために組曲『[[ドリー (フォーレ)|ドリー]]』を作曲した。一説にはエレーヌはフォーレとの不義の子とも言われる。特に第1曲『子守唄』はエレーヌ(ドリー)を描写しており、また第2曲『ミアウー』は本来エレーヌが兄ラウルのことを「ムッシュー・ラウル Monsieur Laoul (ラウルお兄様)」と敬称を付けて言うはずが、幼い口で上手く言えずにメシュー・アウー Messieu Aoul!になってしまうことを描写した題名だったが、出版社の判断で一般的な[[ネコ]]の鳴き声としての表記に改められた。またエンマのために歌曲集『[[優しい歌 (ヴェルレーヌ)|優しい歌]]』を作曲した。
 
しかし、フォーレとの愛人関係を終えてから、長男ラウルをドビュッシーに師事させ、この関係がもとで恋愛関係となり、[[1908年]]にドビュッシーと結婚した。ドビュッシーはエンマとの間に儲けた一粒種の娘クロード=エンマをシュシュ Chouchou([[キャベツ]]ちゃん)と呼んで溺愛し、この娘のために組曲『[[子供の領分]]』([[1909年]])を作曲した。
 
娘クロード=エンマは父の死に際して片親違いの兄ラウルに自らの激情を綴った手紙を送っており、ラウルとの兄妹関係は良好だったものと見られる。これは原文(の自筆コピー)が[[サン・ジェルマン=アン=レー]]のドビュッシー博物館に展示されているほか、ドビュッシー書簡集のフランス語原版の改訂版<ref>〈Claude Debussy Correspondance (1872-1918) édition établie par François Lesure et Denix Herlin, annotée par François Lesure, Denis Herlin et Georges Liébert, Gallimard nrf.〉、2005年7月発行 ISBN 2-07-077255-1</ref>にも収録されている。(日本語訳された書簡集には収録されていない。)しかしそのクロード=エンマも父の死の1年後にジフテリアによって14歳で死去した。エンマはその後1934年まで生きている。
 
==脚注==
<references/>
 
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