「天明の大火」の版間の差分

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==概要==
正月晦日(1月30日)<!--(当時の感覚でいえば、--><!--感覚の問題ではなく、それが暦だったのです--><!--現代の暦ではあくまでも1月31日が「正月晦日」だと思うのですが-->の未明、[[賀茂 (淀川水系)|鴨川]]東側の宮川町団栗辻子(現在の[[京都市]][[東山区]]宮川筋付近)の[[町屋 (商家)|町家]]から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は[[五条通]]にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の[[寺町通]]に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から2日後の2月2日早朝のことだった。
 
この火災で東は[[河原町]]・[[木屋町]]・[[大和大路]]まで、北は[[上御霊神社]]・[[鞍馬口通]]・[[今宮御旅所]]まで、西は[[智恵光院通]]・[[大宮通]]・[[千本通]]まで、南は[[東本願寺]]・[[西本願寺]]・[[六条通]]まで達し、御所・二条城のみならず、[[仙洞御所]]・京都所司代屋敷・[[京都町奉行|東西両奉行所]]・[[摂関家]]の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都[[町代]]を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中1967町のうち焼失した町は1424、焼失家屋は3万6797、焼失世帯6万5340、焼失寺院201、焼失神社37、死者150だったという。ただし死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は1800はあったとする説もある。