「平将恒」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
7行目:
| 別名 = 大蔵太郎、六郎、秩父将恒、秩父将常
| 官位 = 武蔵権大掾
| 氏族 = [[桓武平氏]]、[[秩父氏]]<ref name="aa">『姓氏』(監修:[[樋口清之]]/著者:[[丹羽基二]]、[[秋田書店]])によると、秩父氏は[[知々夫国造|秩父国造]]の末裔と記されている。</ref>
| 父母 = 父:[[平忠頼]]、母:[[春姫 (如春尼)|春姫]]([[平将門]]の娘)
| 兄弟 = '''将恒'''、[[平忠常|忠常]]、[[平頼尊|頼尊]]
16行目:
 
== 概略 ==
[[治安 (元号)|治安]]3年([[1023年]])、[[武蔵国司|武蔵介]]の[[藤原真枝]]が[[勅命]]に反し[[武蔵国]]にて兵を起こした。将恒は藤原真枝征伐の命を受けて相模・上総の兵を率いて豊島で戦い、藤原真枝は自害、将恒はこれを鎮圧した功で[[駿河国|駿河]]・[[武蔵国|武蔵]]・[[上総国|上総]]・[[下総国|下総]]に領地を得たという。
 
[[長元]]元年([[1028年]])、兄弟である[[平忠常]]が房総三カ国([[上総国]]、[[下総国]]、[[安房国]])で大規模な反乱([[平忠常の乱]])を起こしたが、将恒はこれに加担せず、勢力を大きく減退させることは無かった。
 
[[武蔵国]][[秩父郡]]において[[秩父氏]]を称し、将恒の子孫は[[秩父平氏]]として武蔵国各地に勢力を拡大した。長男・[[平武基|武基]]の生母は[[武蔵武芝]]の娘(『[[西角井系譜]]』より)、次男・[[平武常|武常]]と三男・[[平常任|常任]]の生母は[[平忠通]]の娘とされる(『[[桓武平氏良文系全系図‎]]』より)。
 
[[前九年の役]]にて、51歳で戦死したと云われる。