「IG・ファルベンインドゥストリー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
 
== 概略 ==
[[19251904年]]、バーデン・アニリン・ウント・ソーダ工業 ([[BASF]])、フリードリッヒ・バイエル染料会社([[バイエル (企業)|バイエル]])、[[ヘキスト (化学メーカー)|ヘキスト]]、アニリンファブリカツィオン([[アグフア・ゲバルト|アグファ]])、レオポルト・カセラ、カレ、グリースハイム・エレクトロン、ワイラー・テル・メール8三社は三が合盟を結成同盟関係を形成した{{sfn|田村光彰|1997|pp=55}}。この三社は[[フランクフルト・アム・マイン第一次世界大戦]]において毒ガスの製造本社所在地請け負ったこで知られる{{sfn|田村光彰|1997|pp=55}}。1916年には三社同盟に加え資本金11億[[ライヒヘキマルクト (化学メーカー)|ヘキスト]]で発足した。、{{仮リンク|グリースハイム・エレクトロンとワイラー・テル・メールを除く|de|Chemische Fabrik Griesheim-Elektron}}など6社「ドイツ染料タール利益共同体」(Interessengemeinschaft der deutschen Teerfarbenfabriken) を成していたが一種ドイツ[[カルテル]]であ化学・染料業界を支配す利益共同体形態では[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[デュポン]]よう対抗できいとの判断から、8社は単一の会社となることを決断した。ただし、社名には「利益共同体」を意味する IG が残され{{sfn|田村光彰|1997|pp=55}}
 
[[1925年]]、利益共同体の6社は、BASFの[[カール・ボッシュ]]を社長とし、バイエルの{{仮リンク|カール・デュースベルク|de|Carl Duisberg}}を監査役とするトラストが形成された{{sfn|田村光彰|1997|pp=56}}12月には{{仮リンク|ヴァイラー・テア・メール|de|Dr. E. ter Meer & Cie}}社など2社が参加し、{{仮リンク|ロイナヴェルケ|de|Leunawerke}}、{{仮リンク|ファブリック・カレ|de|Chemische Fabrik Kalle}}、{{仮リンク|カセラ染料工業|de|Cassella Farbwerke Mainkur}}を含む9社の大企業が合同したIG・ファルベンインドゥストリーが誕生した。社名には「利益共同体」を意味する IG が冠され、[[フランクフルト・アム・マイン]]に本社所在地が置かれ、資本金は11億[[ライヒスマルク]]であった。デュースベルクはドイツ工業連盟の会長となり、企業界の大勢とは異なり[[ヴァイマル共和政]]への支持を表明した{{sfn|田村光彰|1997|pp=56}}。主力製品は染料、合成皮革、無機化学製品、窒素、写真製品であり、[[スタンダード石油]]と提携して[[人造石油]]の開発にも取り組んだ{{sfn|田村光彰|1997|pp=56}}。しかし輸出顔翁割合を占めており、[[世界恐慌]]では大きな打撃を受けた{{sfn|田村光彰|1997|pp=56}}。
IG・ファルベンの発足に危機感を持った[[イギリス]]化学産業界は、翌[[1926年]]に[[インペリアル・ケミカル・インダストリーズ]] (ICI) を設立し、世界の化学産業は三分された。
 
[[国家社会主義ドイツ労働者党|]]が台頭すると、1932年頃からナチスに接近し始めた。ナチ党と経済界の連携を取るために結成されたケプラー・グループ({{仮リンク|親衛隊全国指導者友の会|de|Freundeskreis Reichsführer-SS}}の前身)には創設メンバーとして参加している{{sfn|田村光彰|1997|pp=56}}。また[[四カ年計画]]政権下のドイツ実質的な主導者の地位にあった{{仮リンク|カール・クラウホ|de|Carl Krauch}}IG・ファルベンの所属であり、四カ年計画庁技術者の三割から二割がIGファルベンの出身者であった。[[第二次世界大戦]]が始まると、積極的に戦争協力を行った。[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]での[[大量虐殺]]に使われたとされる有毒ガス「[[ツィクロンB]]」は、IG・ファルベンがツィクロンBの製造販売のために設立した企業、[[デゲッシュ (企業)|デゲッシュ社]]製である。また[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]の近郊モノヴィッツに{{仮リンク|アウシュヴィッツ第三収容所モノヴィッツ|de|KZ Auschwitz III Monowitz}}を建設し、隣接する石油プラント「ブナ」で収容者を強制労働させた{{sfn|田村光彰|1997|pp=56}}。さらに[[ナチス・ドイツによるフランス占領|フランス]]では地元染料工業を実質的に掌握するなど、ヨーロッパ各地で収奪を行った{{sfn|田村光彰|1997|pp=57}}。IGファルベンは戦後に世界経済を支配する構想すら立てていた{{sfn|田村光彰|1997|pp=57}}
 
1945年にフランクフルトを占領したアメリカでは、IG・ファルベンの取り扱いを巡って議論が交わされた。[[ヘンリー・モーゲンソー]]財務長官らはIG・ファルベンの完全な解体を主張したが、ドイツの産業を復興させようとする国務省と国防省によって反対された{{sfn|田村光彰|1997|pp=57}}。結果、IG・ファルベン自体は解体されるものの、その解体はドイツ人の専門委員会によって、経済的な規範によって行われるという方針がとられることとなった{{sfn|田村光彰|1997|pp=57}}。
第二次世界大戦後の[[1947年]]、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍によって役職員23人が[[戦争犯罪]]の嫌疑で起訴され([[:en:IG Farben Trial|IG・ファルベン社裁判]])、翌[[1948年]]、13人に有罪判決が下された。
 
第二次世界大戦後の[[1947年]]、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍によって役職員23人が[[戦争犯罪]]の嫌疑で起訴され、翌[[1948年]]、クラウホをはじめとする13人に有罪判決が下された({{仮リンク|IG・ファルベン裁判|en|IG Farben Trial}}){{sfn|田村光彰|1997|pp=58}}。最高刑は懲役8年であり、死刑となったものは存在せず、全員が刑期満了前に釈放された{{sfn|田村光彰|1997|pp=58}}。これにはアメリカ国内でドイツ産業界への攻撃は、アメリカにとって不都合であるという見解に基づくものであるとされる{{sfn|田村光彰|1997|pp=58}}。
[[1951年]]、連合国軍の[[財閥]]・トラスト解体政策により解散。[[ソ連占領地区]](のちの[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])の工場は人民企業 (VEB) に改組されるか戦時賠償として接収され、アメリカ・イギリス・[[フランス]]各占領地区では翌[[1952年]]にはバイエル、ヘキスト、BASF、アグフアなどの11社<!--ドイツ語版Wikipediaによる-->が第二会社として発足した。
 
[[1951年]]、IG・ファルベンは正式に解散した。[[ソ連占領地区]](のちの[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])の工場は人民企業 (VEB) に改組されるか戦時賠償として接収された。アメリカ・イギリス・[[フランス]]各占領地区では翌[[1952年]]にはバイエル、ヘキスト、BASF、アグフアなどの12社に分割されたが、やがてバイエル、ヘキスト、BASFの三社によって吸収されていった{{sfn|田村光彰|1997|pp=58}}。IG・ファルベン本体の業務自体はIG・ファルベン精算会社に引き継がれた{{sfn|田村光彰|1997|pp=58}}。批判的株主と呼ばれるグループはは戦時中の補償は後継会社であるバイエル、ヘキスト、BASFの三社が行うべきと主張しているが、三社はIG・ファルベンの後継会社ではなく新企業であるため補償義務はないと主張しており、補償を求める訴えには応じていない{{sfn|田村光彰|1997|pp=58-59}}。
 
==脚注==
{{reflist}}
==参考文献==
* {{Cite journal|和書|author= 田村光彰|title=ドイツ企業の戦後反省 : ダイムラー・ベンツとIG-ファルベンの場合|date=1997|publisher=金沢大学|journal=金沢大学大学教育開放センター紀要|volume 17 |naid=110004826906|pages=53-61|ref=harv}}
 
{{DEFAULTSORT:いいけえふあるへんいんとうすとりい}}