「正倉院」の版間の差分

上述のような倉ごとの品物の区分は明治時代以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。
 
「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは[[藤原仲麻呂の乱|藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)]]の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。また[[大仏開眼]]の際に聖武天皇・光明皇后が着用した冠など、何らかの事情で破損した宝物も存在するが、その破片が所蔵されている場合もある(礼服御冠残欠などの残欠)
 
正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の扉の開封には[[勅使]]([[天皇]]からの使い)が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の[[署名]]入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは[[室町時代]]以降であるが、[[平安時代]]の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封([[東大寺]][[別当]]らの寺僧組織が管理する)に改められた。[[1875年]](明治8年)、正倉院全体が[[明治政府]]の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。
; 紺夾纈絁几褥(こんきょうけちあしぎぬのきじょく)
: 白橡綾錦几褥と同じく机の上に載せる敷物である。本褥は正倉院に伝わる褥の中でも数少ない染物である。文様は蓮華風の花座の上で相対する水鳥を、満開の花樹の下に配置したものである。花葉唐草と雲形を組み合わせた円弧状の帯により上方二方と下方一方に区画されている。文様と文様の間は防染し白くくっきりと残り、赤、黄、緑、濃紺と見事に染め分けられている。例外的に文様の一つである葉の先端を、任意に防染せず黄色と緑色を混ぜ黄緑色に暈かしているが、驚くべきことに赤や紺色など他の染料が入り込んでいない。この技術は現在では[[ロストテクノロジー|失われ]]今日でも解明されていない。
; [[蘭奢待]](らんじゃたい)
:天下第一の名香と謳われる香木。詳しくは[[蘭奢待]]を参照
 
== 正倉院文書 ==
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