「島田魁」の版間の差分

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=== 新選組 ===
[[永倉新八]]と島田が京都でいつ再会したかは不明だが、文久3年([[1863年]])5月には新選組に入隊していたと思われる。そして、諸士調役兼監察の任に就く。180cm近くもある巨漢で怪力の持ち主であったという。また副長の[[土方歳三]]の徹底した隊規の取締りによる[[新選組隊内において粛清された隊士|隊士の粛清など]]等所謂、裏の土方の「汚れ役」も担っている。[[元治]]元年([[1864年]])6月には諸士調役兼監察の能力を存分に発揮し[[池田屋事件]]の発端となる[[古高俊太郎]]捕縛に貢献している。その後の組織再編で伍長も兼任する。
 
[[慶応]]3年([[1867年]])11月の[[油小路事件]]では、[[服部武雄]]と戦っている。同年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]、[[御陵衛士]](高台寺党)残党による[[近藤勇]]襲撃では近藤の護衛として同行していた。馬上で狙撃された近藤の馬を走らせ命を救ったのは島田である。
 
慶応4年([[1868年]])[[1月3日 (旧暦)|1月3日]] [[鳥羽・伏見の戦い]]では、[[永倉新八]]らと決死隊を組織し敵陣に斬り込んだ。しかし、敵の銃撃が激しく撤退。その際に、重装備の永倉が土塀を乗り越えられないのを見ると自分の持っていた銃を差し出し、永倉に「これを掴め」と指示して島田は持ち前の怪力で永倉を土塀の上へ軽々と引き上げた逸話がある。その後、[[箱館戦争|箱館]]まで[[戊辰戦争]]を戦い抜いた。
 
=== 明治以降 ===
[[画像File:西本願寺太鼓楼.jpg|thumb|200px|島田が勤めていた西本願寺太鼓楼]]
明治2年([[1869年]])5月に降伏。11月まで謹慎生活を送る。その後、[[名古屋藩]]に預けられ、謹慎が解かれると京都で剣術道場を開く。この間、[[明治政府|新政府]]への出仕の話や[[榎本武揚]]が「旧交を温めたいので宿舎まで来て欲しい」と面会したいと伝えたのに対し、「会いたいという奴の方から出向くのが筋だろう」と断ったという。
 
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== 人物 ==
島田は[[箱館戦争]]後、近藤をはじめ散っていった新選組隊士の菩提を弔うため念仏をかかさず、箱館で戦死した[[土方歳三]]の戒名を書いた布を常に懐に携えていたという。また、後世に自分たちを伝えるため「為『[[島田魁日記]]』はじめ様々な記録や品々を保管している。それらが今日の新選組研究に多大な貢献をしている(現在[[霊山歴史館]]に収蔵されている)。
 
新選組の主催した相撲興行でも活躍し「力さん」の異名をとった。また、その巨漢に似合わぬ大の甘党で、自分で大鍋一杯の[[汁粉]]を作り、それを1人でぺろりとたいらげた。それも[[砂糖]]を大量に入れ糸を引くほどの甘さであったため、周りの隊士は誰も、この「島田汁粉」を食べられなかったという。新政府から釈放された後は京都に戻り、[[レモネード]]屋や雑貨屋、剣術道場などを開いたが、あまり流行らず困窮したという。
 
縁戚との交流も頻繁にあり、晩年の島田の写真は兄弟等と一緒に写ったものだった。その交流により、親戚の岸家や永縄家には遺品があるという。