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小学生のときに野球を始め、高校球児時代は[[沖縄県立糸満高等学校|糸満高校]]野球部に所属。
 
当時、夏の甲子園は現在のような一県一代表制は採用されておらず、夏の沖縄大会で優勝しても、九州の学校との決定戦に勝たないと甲子園に出場できなかったため、沖縄勢にとって、甲子園出場は至難であった。しかし、栽が2年生だった[[第40回全国高等学校野球選手権大会|1958年夏]]は、夏の甲子園が第40回の記念大会を迎え、特別に一県一代表制を採用したことから、沖縄大会優勝校が甲子園に出場できることとなった。優勝候補の一角だった糸満高校は準決勝に進出したが、[[沖縄県立首里高等学校|首里高校]]に乱打戦の末6-8で敗れ、勝った首里が決勝にも勝って優勝し、沖縄勢初の甲子園出場を果たした。結局、栽は選手としては甲子園出場は果たせず、その後[[中京大学]]へ進学して指導者としての道を目指す。
 
大学を卒業した1964年、[[沖縄県立小禄高等学校|小禄高校]]に赴任し、[[日本の高校野球|高校野球]]監督としてのキャリアをスタートさせる。全国に通用するチームを目指して過酷な練習を課したことから度々選手との対立を引き起こしつつも着実にチームを強くし、1970年、初めて夏の沖縄大会優勝を果たしたが、宮崎県代表である都城高校との代表決定戦に敗れ、[[阪神甲子園球場|甲子園]]大会出場はならなかった。
 
1971年に[[沖縄県立豊見城高等学校|豊見城高校]]に転任し、[[第47回選抜高等学校野球大会|1975年春]]、2年生エース[[赤嶺賢勇]]を擁して甲子園初出場を果たす(ただし、このときは家庭の事情で高校進学が遅れて19歳となっていた部員をベンチ入りさせるため、彼を監督とし、自らは背広を着て部長として指揮をとった)。この大会では、大会初日に優勝候補でその年の夏に優勝する[[習志野市立習志野高等学校|習志野]]を破るなど旋風を巻き起こし、ベスト8に進出したが、準々決勝で[[原辰徳]]を擁する[[東海大学付属相模高等学校|東海大相模]]を相手に、1-0とリードした9回裏2死ランナーなしの場面から逆転サヨナラ負けを喫する。この後、豊見城では、赤嶺、[[石嶺和彦]]らを擁し、春夏合わせて6回甲子園に出場し、3回準々決勝に進出([[第58回全国高等学校野球選手権大会|1976年夏]]、[[第59回全国高等学校野球選手権大会|77年夏]]、[[第60回全国高等学校野球選手権大会|78年夏]])したものの、ベスト8の壁は破れなかった。
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その後、学区制が採用されて選手を集めにくくなったことや、グラウンドその他の設備の不十分さなどから限界を感じ、1980年、全県から選手を集められ、学校が所有する広大な敷地を自由に使う許可を出してくれた[[沖縄県立沖縄水産高等学校|沖縄水産高校]]に転任した。
 
転任後数年は、[[比屋根吉信]]率いる[[興南中学校・高等学校|興南高校]]の後塵を拝したものの、[[第66回全国高等学校野球選手権大会|1984年夏]]に初出場を果たす(ただしこの時は栽が謹慎中だったため、コーチが監督代行として指揮をとった)と、その後は1985年に入学した[[上原晃]]の活躍も加わり、1988年まで5年連続で夏の甲子園に出場するなど、黄金時代を築いた。沖縄水産でもなかなかベスト8の壁を破れなかったが、[[第70回全国高等学校野球選手権大会|1988年夏]]に初めてベスト4に進出すると、[[第72回全国高等学校野球選手権大会|1990年夏]]・[[第73回全国高等学校野球選手権大会|1991年夏]]に2年連続で決勝戦に進出、沖縄県勢として悲願の全国制覇は惜しくもならなかったが、2回の準優勝を果たした。
 
しかし、1992年に不祥事のため夏の沖縄県大会出場を辞退して以降、成績が下降線をたどり、結果として、1991年夏の準優勝以後は甲子園出場は春夏合わせて4回にとどまった(勝利は[[第68回選抜高等学校野球大会|1996年春]]の1勝のみ)。