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[[1945年]]8月[[広島市への原子爆弾投下|広島に原爆が投下]]されると、飯室の船宿をたたみ広島市西郊の[[三滝本町|三滝]]に移住していた父母など実家の家族の安否を気遣った位里は、俊とともに被爆直後の広島に赴き救援活動に従事した<ref>父・金助は原爆投下時に[[爆心地]]近くにいたため体調が優れず1年後死去したが、スマは爆心地から遠く離れた自宅に居たため健在であった。同上、針生。</ref>。この体験をもとに[[1950年]]、俊と協働で『[[原爆の図]]』を発表するとともに絵本『[[ピカドン (丸木位里・俊)|ピカドン]]』を刊行し、以後、原爆の絵を描き続けた。
 
1946年に[[日本共産党]]に入党。
 
[[1956年]]11月、丸木夫妻がアムステルダム留学中、原爆の絵の展覧会を手伝ったことで知り合った香川睦久が留守宅に上がり込み、留守番をしていた母スマを撲殺。窃盗目的の殺人と見られている。事件発覚後、香川の遺体が神奈川県横須賀市長者ヶ崎で発見され、飛び込み自殺したとされている。
 
[[1964年]]に[[部分的核実験停止条約]]の評価を巡り共産党を除名される<ref>菅原憲義『遺言‐丸木位里・俊の五十年』([[青木書店]]) 200頁</ref>。
 
[[1966年]]、[[埼玉県]]に移住し、翌[[1967年]]に自宅近くに[[原爆の図丸木美術館]]を設立した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/feature/saitama1235399245410_02/news/20090309-OYT8T01133.htm この街に生きる・東松山の巻・丸木美術館]</ref>。