「ユダヤ人」の版間の差分

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==== 第一次世界大戦 ====
[[1914年]]11月にイギリスが[[オスマン帝国]]に宣戦布告すると、シオニストの閣僚・[[ハーバート・サミュエル]]が「[[:en:s:The Future of Palestine|The Future of Palestine]]」を閣僚に回覧した。当時、パレスチナは[[:en:Syria Vilayet|Vilayet of Damascus]]南西部にあったが、[[1915年]][[10月24日]]の[[フサイン・マクマホン協定]]のこの部分に関する解釈が後に大論争となった。[[第一次世界大戦]]が始まると大量の[[コルダイト火薬]]が必要になったが、その原料の[[アセトン]]供給を握っていたのは[[ロシア帝国]]の化学者でシオニストの[[ハイム・ヴァイツマン]]であった。このことでイギリス政府閣僚との知古を得たヴァイツマンは[[アーサー・バルフォア]]に[[バルフォア宣言]]を働きかけた。[[1915年]][[4月22日]]、[[フリッツ・ハーバー]]指揮下の[[毒ガス]]作戦が、[[イーペル]]地区で実行され({{仮リンク|第ニ次イーペルの戦い|en|Second Battle of Ypres}})、その後、[[東部戦線]]へも拡大された({{仮リンク|ボリモウの戦い|en|Battle of Bolimów}}、[[リガ攻勢]])。[[1915年のパレスチナ蝗害]]。[[1916年]][[5月16日]]には[[サイクス・ピコ協定]]が締結された。[[アラブ反乱]]([[1916年]]6月 - [[1918年]]10月)。[[1917年]]に熱心なシオニストの[[ウォルター・ロスチャイルド (第2代ロスチャイルド男爵)|第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルド]]はイギリス政府から[[バルフォア宣言]]を取り付け、イギリス政府はシオニズム支持を表明することになった。この条約は[[トルコ]]との[[セーヴル条約]]や[[イギリス委任統治領パレスチナ]]([[1920年]]-[[1948年]])に繋がっていった。[[1919年]]には{{仮リンク|ファイサル・ワイツマン合意|en|Faisal–Weizmann Agreement}}が調印され、パレスチナへのユダヤ人入植を促進させることで合意している。[[オスマン帝国]]から代わった委任統治が、[[イギリス委任統治領パレスチナ]]([[1920年]]-[[1948年]])の公用語の一つとして[[ヘブライ語]]を宣言した。
 
イスラエル建国以前の中東では、イスラム教徒とユダヤ教徒は共存してはいたが、しばしば大規模な反ユダヤ暴動が起きた。[[1920年]]7月の暴動(ユダヤ人216人死傷)、[[1921年]]の暴動があった。[[1922年]]、[[イギリス委任統治領パレスチナ]]が成立。[[1925年]]、[[1926年]]の暴動、[[1929年]]には[[嘆きの壁事件]]がきっかけとなって[[8月23日]]には{{仮リンク|ヘブロン虐殺 (1929年)|en|1929 Hebron massacre|label=ヘブロン虐殺}}(ユダヤ人133人死亡、339人負傷、アラブ人439人死傷)があった。