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== 業績 ==
*明治12年([[1879年]])から明治18年([[1885年]])にかけて『国史纂要』を著す。
*[[1890年]]、[[重野安繹]]、[[久米邦武]]とともに『[[国史眼]]』を編纂した。同1890年、「本邦ノ人種言語ニ付鄙考ヲ述テ世ノ真心愛国者イ質ス」と題する論文を発表、[[スサノオ]]が「新羅の主」であり、朝鮮と日本はもとはひとつの国であったと主張、のちに[[日鮮同祖論]]として形成される言説の先駆となった。
*明治26年([[1893年]])、[[久米邦武筆禍事件]]により久米、重野とともに編修官を解任されている。
*明治32年([[1899年]])、『[[竹内敬持|竹内式部]]君事蹟考』を発表。