「明友会」の版間の差分

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ミナミにおける明友会勢力は消滅し、代わって[[田岡一雄]]の大阪の舎弟・[[藤村唯夫]]が率いる[[南道会]]勢力が躍進した。神戸の[[溝橋組]](組長・[[溝橋正夫]])など山口組傘下団体が大阪に進出。また明友会から[[小田秀臣]]が独立、山口組傘下に鞍替えした(後の山口組若頭補佐、[[小田秀組]]組長、集団指導体制化での序列は4位と目された)。
 
[[加茂田重政]]が戦闘隊長として前線に立ち、警察の山口組への追及を自分で食い止め長い懲役に行くことになった。長い目で見た場合、この大功績が(若頭だった[[地道行雄]]を除き)ナンバー2の[[山本健一 (ヤクザ)|山本健一]]([[山健組]]組長)やナンバー3の山本 広たち以上の[[勲章]]となり、逆に三代目組長・田岡歿後の迷走に拍車を掛ける結果となった。
 
地道行雄の大阪の舎弟であった柳川組の実力を本家の山口組が認めた結果、これ以降の戦闘の修羅場に彼らを送り込むことを決意させた。また、後に三代目の懐刀とされ沖縄和平交渉や[[東海地方|東海]]、[[関東地方|関東]]の系列化に大功績のあった「山口組の[[ヘンリー・キッシンジャー|キッシンジャー]]」黒沢 明が世間に出る契機となった。