「片岡仁左衛門 (11代目)」の版間の差分

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==人物==
いわゆる天才肌の名人だったが、個性が強い上に気性が激しく、[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]や鴈治郎と衝突を度々くり返し当時の歌舞伎界でも指折りの要注意人物でもあった。たとえば、團十郎の態度が癪にさわると、楽屋風呂に先に入って湯を汚したり、團十郎の前で傘を開いて[[助六]]の見得を切る(『助六』は市川宗家の[[お家芸]])。相方の口跡が気に入らないと、嫌みに台本を手に舞台に上がり、舞台に不要な物でも落ちていようものなら、これ見よがしにゴミ拾いをしながら舞台をつとめた。『[[一谷嫩軍記|熊谷陣屋]]』の弥陀六では、石鑿を投げたつもりで上手から舞台に出なければいけないのに、邪魔な奴が立っていると言ってはわざわざ下手から出て芝居をぶちこわす。『[[国性爺合戦]]・紅流し』の和藤内では、片足をかける橋の欄干の高さが気に入らないと言っては化粧を落として帰宅する。「[[仮名手本忠臣蔵]]」の師直役を承諾しながら暦を持ってきて「ああ。あかんわ。今日は師直やったら悪い日や。」と断る。こうしたエピソードには枚挙に暇がない。
 
その気性の激しさは老いても相変わらずだった。昭和2年(1927年)、奴を踊った若手役者の[[片岡千恵蔵|片岡千栄蔵]]を、「貴様は鈍な役者だ」と、そばにあった真剣の峰をかやして殴った。離れてみていた同じ若手の[[嵐寛寿郎|嵐和歌大夫]]にも「カツーン!」という音が聞こえるほどだった。これを見た和歌大夫は「男の面態を!」と心が寒くなったという。和歌大夫はこのとき、「歌舞伎や古典やと偉そうに言うけれど、阿呆でも名門のセガレは出世がでける、才能があっても家系がなければ一生冷や飯喰わされる、こんな世界に何の未練もないと思うた」という。千栄蔵も和歌大夫も、この一件をきっかけとして、程なく歌舞伎界と縁を切り活動写真の世界へと完全に転じてしまう結果になった。この真剣で殴打された片岡千栄蔵とは[[片岡千恵蔵]]であり、嵐和歌大夫とは後の[[嵐寛寿郎]]である<ref>『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)</ref>。すなわち、良くも悪くも後の2名の昭和の[[剣戟映画]]の大スタアに、歌舞伎を捨てさせるきっかけを作った人物でもある。