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2002年に広島ユース入団<ref group="注">同級生は[[高柳一誠]]、[[佐藤昭大]]、[[高萩洋次郎]]、[[森脇良太]]、[[桑田慎一朗]]、[[藤井大輔 (サッカー選手)|藤井大輔]]、[[大屋翼]]、[[冨成慎司]]ら。</ref>。当初は主にトップ下を務めていたが、次第にストライカーとして頭角を表すようになる。
 
2003年、[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|日本クラブユース選手権]]直前に腕を骨折、同大会と[[高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会|高円宮杯全日本ユース選手権]]は欠場。復帰後、自分不在のチームが快進撃を続けた事<ref group="注">クラブユース選手権初優勝、高円宮杯3位</ref> への焦りと悔しさをバネに、同年末の[[Jリーグユース選手権大会]]でチームを優勝に導き、自身も得点王となる<ref group="注">準決勝[[セレッソ大阪]]U-18戦で見せた後方からのロングフィードをトラップすることなく右足で叩きこんだランニングボレーシュートは、その映像が全国放送のテレビニュースで使用された。</ref>。
 
2004年には「10」番を背負い、クラブユース選手権優勝(得点王&MVP受賞)、高円宮杯初優勝(得点王受賞)に導く活躍を見せ、3大会連続得点王に輝く。クラブユース史上初の3冠を目指したJユースカップでは、決勝でPK戦の末敗れ準優勝となった。
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U-20日本代表では[[2005 FIFAワールドユース選手権]]のメンバーに選出され、グループステージ・[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]戦と決勝トーナメント初戦・[[サッカーモロッコ代表|モロッコ]]戦に交代出場。オーストラリア戦では、グループステージ敗退寸前に追い込まれたチームを決勝トーナメントへと導く貴重な得点を挙げた。
 
2006年、広島は新布陣が機能せずJ2降格の危機に晒される。チームが結果を出せない中、自身も不調に陥り、Jリーグ屈指の2トップである[[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|ウェズレイ]]と[[佐藤寿人]]の厚い壁に阻まれ、戦術的な問題<ref group="注">相手ラインの裏を取るプレーよりも、徹底して足元でボールを受けて個人技で抜きにかかるプレースタイルのため、プレーを研究されてからは、ボールを持って前を向くより先に囲まれて簡単にボールを奪われるシーンも目立った。広島にはライン突破にかけては日本屈指の技術を誇り、チームトップクラスのスコアラーである佐藤寿人が在籍しており、レギュラー争いでは厚い壁に阻まれることになった。</ref> や2007年からは[[平繁龍一]]の台頭もあり出場機会が減っていった。
 
同年6月、FWに怪我人が続出し得点力不足に陥っていた[[大分トリニータ]]に期限付き移籍。その大分でも出場機会は多くなかったが、残留争いの大一番となった[[大宮アルディージャ]]戦で後半43分に決勝点を挙げ、大分のJ1残留へ向けて貴重な勝利をもたらした。
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{{DEFAULTSORT:まえた しゆんすけ}}
 
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