「鳥山石燕」の版間の差分

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[[ファイル:Kappa jap myth.jpg|thumb|240px|○[[河童]](かっぱ) 川太郎ともいふ<br />『[[画図百鬼夜行]]』の内、一図「河童」<br />[[ハス|蓮]]池の茂みから現れ出でた河童を描く。]]
 
'''鳥山 石燕'''(とりやま せきえん、[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]]<ref>生年は正徳4年([[1714年]])ともいわれる。</ref>) - [[天明]]8年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]([[1788年]][[9月22日]]))は、[[近世江戸時代]]後期の[[日本画家]]に生きた[[画家浮世絵|浮世絵師]]の一人<!--WP:POV-->。[[妖怪]]画を多く描いた[[江戸時代|江戸]]中期の[[浮世絵|浮世絵師]]である。生年は正徳4年([[1714年]])ともいわれる
 
== 来歴生涯 ==
正徳2年(1712年)頃に誕生。[[姓]]は佐野(さの)、[[諱]](いみな)は豊房(とよふさ)。[[字]](あざな)は詳らかでない。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。
 
== 人物と作風 ==
[[狩野派]][[門人]]として[[狩野周信]](かのう ちかのぶ。[[狩野派#江戸時代中期以降|cf.]])及び玉燕に付いて[[絵画|絵]]を学び、また、[[俳諧|俳諧師]]・[[東流斎燕志]]に師事した。
 
[[安永]]5年([[1776年]])に著した『[[画図百鬼夜行]]』により、妖怪絵師としての地位を確かなものとすると、同年、続けて『[[今昔画図続百鬼]]』を刊行。さらに安永10年([[1780年]])には『[[今昔百鬼拾遺]]』を、[[天明]]4年([[1784年]])には『[[百器徒然袋]]』を世に出した(これら4作品は全て3部構成である)。主に鬼子母神に奉納された「大森彦七」のような額絵のほか、『石燕画譜』のような版本著名であるが、錦絵一枚絵の絵師ではなかった。しかし、フキボカシの技法を案出、俳人としても広く活動した。また、弟子も多く[[喜多川歌麿]]や[[恋川春町]]、[[栄松斎長喜]]とった絵師や[[黄表紙]]作者を育てた
 
天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。
視野が広く力量もあったため、弟子も多く、[[喜多川歌麿]]や[[恋川春町]]、[[栄松斎長喜]]といった絵師、[[黄表紙]]作者を育てた。
 
石燕の描く妖怪画は恐怖心よりもむしろ微笑みや奇妙さを誘う作風が特徴。石燕の画業は後世にも多くの影響を与えており、石燕の手による妖怪をモチーフにして創作活動を行う者もいる。現代日本人の妖怪のイメージは漫画家[[水木しげる]]の画に拠るところが大きいが、その画も石燕の作品に取材したものが少なくなく、日本人の思い描く妖怪の原型は石燕の著作に端を発するといっても過言ではない。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士
 
== 関連項目 ==
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|isbn= 4-04-883912-8-C9495
}}
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
*[http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/5200/1/10410-001.pdf 石燕妖怪画私注(近藤瑞木)]