「松前昌広」の版間の差分

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== 生涯 ==
文政8年(1825年)8月27日、第9代藩主・[[松前章広]]の次男・[[松前見広]]の次男として福山城で生まれる。[[天保]]10年([[1839年]])7月21日、兄・[[松前良広|良広]]が[[隠居]]したため、[[家督]]を継いで第11代藩主に就任する。儒学者の[[山田三川]]を登用して藩政改革を行なおうとするが、当時の松前藩では藩主の早世が相次いだために重臣・[[松前広純|松前内蔵]](曾祖父の第8代藩主・[[松前道広|道広]]の五男)の専横が行なわれていた。このため、昌広は天保13年([[1842年]])9月、義父の乗全の力を後ろ盾にして12月に内蔵を家禄半分にしたうえで失脚に追い込み、[[江戸]]で蟄居させた。その上で三川を側用人・表用人としてあらためて用いて、天保15年([[1844年]])5月から倹約・風紀粛清・奢侈禁止などを中心とした藩政改革を行なった。ただし、藩主の昌広は病弱な上に精神病にもかかっていたため、藩政は三川と[[松前広茂]]によって行なわれ、昌広は江戸の藩邸で養生していただけであった。
 
弘化4年([[1847年]])に入ると、昌広の病状はさらに悪化し、酒色に耽るようにもなったため、嘉永2年([[1849年]])6月9日、家督を養子の[[松前崇広|崇広]]に譲って[[隠居]]した。その後は福山城北東の北殿で余生を送り、嘉永6年(1853年)8月8日に死去した。享年29。