「上野国」の版間の差分

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|一宮 = [[一之宮貫前神社]](群馬県[[富岡市]])
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'''上野国'''(こうずけのくに、かみつけの(のくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。
 
[[常陸国]]・[[上総国]]とともに[[親王]]が[[国司]]を務める[[親王任国]]であり、国府の実質的長官は上野介であった<ref name = ruijusandai>親王任国の制度は天長3年(826年)に始まっており、延喜式の編纂が始められた延喜5年(905年)には既に親王任国であった。類聚三代格</ref>。
 
== 「上野」の由来と読み ==
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[[群馬県]]・[[栃木県]]南西部古代関東には「[[毛野]](けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる文化圏政治勢力が存在し、前者が上下に二分されて「上毛野(かみつけぬ)」「下毛野(しもつけぬ)」となったと言わている<ref name = sekai>『世界大百科事典』(平凡社)毛野(けぬ)項。</ref>。この毛野が後に「上毛野」と「下毛野」に分けられたとされる<ref>『国造本記』(『先代旧事本紀』第10巻)下毛野国造条。</ref>。毛野の起こりについては、『[[常陸国風土記]]』によると筑波はもともと[[毛野|紀の国]]であるといい、この紀の国と毛野が同一か不詳だが、[[鬼怒川|毛野河]]筑波西部の郡の境界とあ<ref>『常陸国風土記』。</ref>。国名の、また『[[上下続日本紀]]について』で毛野川は古くから[[上総常陸国]]と[[下総国]]などと同様、一国を「上」と「下」に二分したも境界であるされていなど<ref>続日本紀</ref>備・越・筑・豊・肥等毛野と毛野川(現在ように[[前後鬼怒川]]に分けら)の深い関わりが覗わる。『[[上野名跡志]]』では[[下野]][[河内郡]]衣川郷が毛野いう国名由来と推察されては不詳である<ref>[http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&lsmp=1&kwup=%E6%AF%9B%E9%87%8E&kwbt=%E6%AF%9B%E9%87%8E&mcmd=25&mcup=25&mcbt=25&st=score&asc=desc&oldmc=25&oldst=score&oldasc=desc&id=1000115193 レファレンス協同データベース - 栃木県立図書館回答]『上野名跡志』。</ref>。またこの分裂は史書に無く詳細は不明で、古くより議論がある(「[[毛野#毛野の分裂]]」を参照)
 
国名の[[上下]]については、[[上総国]]と[[下総国]]などと同様、一国を「上」と「下」に二分したものとされるが、備・越・筑・豊・肥等のように[[前後]]に分けられた国との違いは不詳である<ref>[http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&lsmp=1&kwup=%E6%AF%9B%E9%87%8E&kwbt=%E6%AF%9B%E9%87%8E&mcmd=25&mcup=25&mcbt=25&st=score&asc=desc&oldmc=25&oldst=score&oldasc=desc&id=1000115193 レファレンス協同データベース - 栃木県立図書館回答]。</ref>。またこの分裂は史書に無く詳細は不明で、古くより議論がある(「[[毛野#毛野の分裂]]」を参照)。
 
『[[大宝律令]]』の制定においても、上毛野は「'''上毛野国'''(かみつけぬ/かみつけの)」として[[令制国]]の1つに定められた<ref>『日本の地名 群馬県の地名』([[平凡社]])上野国節。</ref>。その後、上毛野国・下毛野国の国名は「'''上野国'''」・「下野国」と改められた(和銅6年([[713年]])の[[諸国郡郷名著好字令]](好字二字令)の一環と想定されている)。この際、「毛」の字は消えたものの「こうず'''け'''のくに」として読みにその名残をとどめている。なお「かみつけ」からの転訛であるが、読みは慣用的に「こうづけ」でなく「こうずけ」と振られて表記される。
 
読みについて、『[[和名抄]]』には「加三豆介乃」<ref>『和名抄』。</ref>、『[[万葉集]]』には「可美都氣努」「可美都氣野」などが見られる。同集で当国名が詠まれた12首のうち11首までは末尾を「努(ヌ)」と詠んでいるのに対し「乃(ノ)」としているのは1首のみで<ref>『万葉集』。</ref>、[[奈良時代]]頃までは「かみつけぬ」後世に「かみつけの」と読みが変わったものと推定されている。さらに、「美」については「ウ」とも読み「ウ」の次の読みは濁ることが多く「」となり訛って「ノ」を省き「カウケ」となったとの解釈がある<ref>『[[古事記伝]]』</ref>。ただし「努」の読みの解釈関しついては「努」は[[万葉仮名]]の「ノ(甲類)」である論証がなされとし、「けぬ」は江戸時代以来の誤った読みとする説もある<ref>日本古典文学大系本『萬葉集 一』(岩波書店、昭和32年)において論証されている(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』序文より)。</ref>、『万葉集』の訓読においては「努」は「ノ」と読むのが一般的である<ref>[http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php 万葉集検索システム](山口大学教育学部)、佐佐木信綱『新訓萬葉集』(岩波文庫)参照。</ref>。そのため現在では、「けぬ」は江戸時代以来の誤った読みとされ <ref>『大辞林』(第三版)毛野項。</ref>、「けの」が正しい読みとされている<ref>熊倉浩靖 『古代東国の王者 上毛野氏の研究 2008年改訂増補版』(雄山閣)p.5。</ref>。ただし、万葉集では「努」はもとより「野」についても「ヌ」の読みに充てている例もあるため、「毛野」を「けの」または「けぬ」とする例も少なからず見られる<ref name = sekai/><ref>日本大百科全書、ニッポニカ・プラス(小学館)</ref><ref>大辞泉(JapanKnowledge)</ref>。
 
[[藤原宮]]跡出土木簡の中には「上毛野国車評桃井里」の記載が見られる<ref>『国史大辞典』([[吉川弘文館]])上野国項。</ref>。
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[[国造]]の上毛野君は[[崇神天皇]]長子で東国の統治を任じられた[[豊城入彦命]]を祖とするとされる<ref name = nihonshoki>日本書紀</ref>。また上野は同書で[[日本武尊]]が[[蝦夷]]を平定し[[日高見国]]から西南の地[[常陸国]]に戻って[[甲斐国]]に至り、その北に在って従わない[[信濃国|信濃]]および[[越国|越]]を征すため[[武蔵国|武蔵]]および[[上野国|上野]]を廻って碓日坂を登り碓日峰で東南を見下ろして「吾嬬者耶」と言ったことで知られる<ref name = nihonshoki>日本書紀</ref>。
 
同書によると、上毛野君は[[仁徳天皇]]の御世に[[新羅]]と戦い捕虜を得たといい、またその後[[天智天皇]]の御世には[[百済]]が[[新羅]]に攻められた際、百済を軍事的にするため朝鮮半島に遣わされたという<ref name = nihonshoki/>。その前[[推古天皇]]9年([[601年]])9月8日には[[新羅]]人の間諜者である迦摩多が[[対馬国|対馬]]で捕えられ上野に配流されており<ref name = nihonshoki/>、上野国と朝鮮半島が古い時期から深く関わりを有していたことが覗われる。
 
和銅4年(711年)に[[甘楽郡]](かむらのこほり)の織裳(おりも)、韓級(からしな)、矢田(やた)、大家(おおや)の4郷、[[緑野郡]](みとののこほり)の武美1郷、[[片岡郡]](かたおかのこほり)の山等(やまな)1郷、計6郷が各郡から分離され[[多胡郡]](たごのこほり)が新設され<ref>続日本紀</ref>、[[倭名類聚抄]]の成立期には碓氷(うすひ)、片岡(かたおか)、甘楽(かむら)、多胡(たご)、緑野(みとの)、那波(なは)、群馬(くるま)、吾妻(あかつま)、利根(とね)、勢多(せた)、佐位(さい)、新田(にふた)、山田(やまた)、邑楽(おはらき)の計14郡があった<ref>[[倭名類聚抄]]</ref>。
 
国級は[[国司#国等級区分|上国]]であったが、[[弘仁]]2年([[811年]])[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]に[[大国 (令制国)|大国]]に変更となり<ref>[[日本後紀]]</ref>、[[天長]]3年([[826年]])旧暦9月6日、上野国と[[常陸国]]、[[上総国]]の3国には[[国司|国守]]として[[親王]]が[[遥任]]される[[親王任国]]となった<ref>[[類聚三代格]]< name = ruijusandai/ref>。このため、上野国の現地長官は次官の上野介であった。良馬の産地として[[勅旨牧]]がおかれた。
 
全国に10余りしか現存しない[[奈良時代]]以前の石碑のうち、3つが[[多胡郡]]にある。藤原宮木簡には、上毛野国と表記。[[国衙]]のあった[[国府]]は[[群馬郡]]にあった。現在の[[前橋市]]元総社町付近と推定されているが、その遺跡の所在を確認するには至っていない。その周辺には[[国分寺]]跡・国分尼寺跡・総社神社がある。