「西突厥」の版間の差分

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|先代1 = 突厥
|先旗1 = blank.png
|次代1 = カルルク突騎施
|次旗1 = blank.png
|次代2 = 回鶻カルルク
|次旗2 = blank.png
|次代3 = ハザール回鶻
|次旗3 = blank.png
|次代4 = ハザール
|次旗4 = blank.png
|国旗画像 =
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羈縻政策下では、阿史那賀魯征討に功のあった阿史那弥射,阿史那歩真の2人によって西突厥諸部が統括され、その両家が代々可汗位を襲名し、唐の反乱鎮圧などに参加した。
 
[[長寿 (武周)|長寿]]年間([[692年]] - [[694年]])に弥射家の興昔亡可汗が途絶え、[[741年]]頃には、歩真家である十姓可汗の[[阿史那昕]]が{{仮リンク|突騎施|en|Turgesh}}の莫賀達干に殺されると、西突厥の阿史那氏可汗が滅亡し、西突厥では突騎施部が台頭する。以後、突騎施部は'''黄姓'''と'''黒姓'''に分かれて互いに争うようになった。
 
[[大暦]]年間([[766年]] – [[779年]])の後は、葛邏禄([[カルルク]])族が盛んになり、黄姓と黒姓の突騎施二姓は葛邏禄に臣従し、その他は[[回鶻]](ウイグル)に附くこととなり、ここにおいて西突厥は完全に滅んだ。