「フアン・マヌエル・デ・ロサス」の版間の差分

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[[アルゼンチン・ブラジル戦争|ブラジル戦争]]中に州権論の立場から{{仮リンク|ベルナルディーノ・リバダビア|en|Bernardino Rivadavia}}大統領の中央集権的な首都令を批判することによって、連邦派(ブエノスアイレスの利権を取り上げようとする[[中央集権]]主義者に抵抗する保守派)の統領となり、1829年に統一派でいとこだった{{仮リンク|フアン・ラバージェ|en|Juan Lavalle}}を打倒してブエノスアイレス州知事となった。全土の混乱を鎮めるためにロサスは州知事として連邦派の[[リトラル (アルゼンチン)|リトラル]]や内陸部の[[カウディージョ]]と同盟を結び、統一派の[[中央集権同盟]]を打倒すると、アルゼンチンの内戦は小康状態に入った。
 
1832年に任期切れで州知事を退陣すると、私兵を率いて「{{仮リンク|荒野の征服作戦|en|Desert Campaign (1833–34)}}」と呼ばれる軍事行動を起こし、インディオをブエノスアイレス州の領域からほぼ追い出した。この時に約6,000人のインディオが殺害された。
 
1835年に州知事に返り咲き、17年間独裁政治を行い反対派や自由主義者を弾圧した。ロサスは[[保護貿易]]政策を巡る英仏や[[ウルグアイ]]との戦争([[大戦争]])を乗り越え、1850年には英仏両国を撤退に追いやった。この時期にロサスは[[フランス]]の[[ブローニュ=シュル=メール]]に亡命していたアルゼンチンの[[リベルタドーレス|解放者]][[ホセ・デ・サン・マルティン]]からサーベルを贈られている。しかし、1852年に、腹心だった{{仮リンク|フスト・ホセ・デ・ウルキーサ|en|Justo José de Urquiza}}が反乱を起こすと、ウルキーサに{{仮リンク|カセーロスの戦い|es|Batalla de Caseros}}({{lang-es-short|Batalla de Caseros}})で敗れ、イギリス船に乗り込み、娘と共に亡命した。後の為政者とは違ってロサスは海外に資産を残さなかったため、[[サウサンプトン]]で困窮の内に死去した。