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1957年には日本代表監督となり、[[中華人民共和国|中国]]遠征で代表を率いた(ただしこの期間に[[サッカー中華人民共和国代表|中国代表]]などとの[[国際Aマッチ]]は無いため、代表監督とは見なさないとする意見もある)。1958年に選手としての活動を終えると、1959年には日本で初めて編成されたユース代表チームの監督に就任した。[[マレーシア]]で開催された第1回[[AFCユース選手権|アジアユース大会]]では[[杉山隆一]]らを率いて、3位という当時としては予想以上の好成績を収めた。
 
1960年、[[竹腰重丸]]の後を継いで再び日本代表監督に就任。[[1962 FIFAワールドカップ|ワールドカップチリ大会]]予選を戦いつつ、1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]に向けた強化活動としてヨーロッパ遠征などを行った(この時、[[デットマール・クラマー]]と出会った)。しかし、指導者の若返りを図る[[日本サッカー協会]]の方針により、1962年には[[長沼健]]に代表監督の職を譲ることになった。
 
1970年には当時[[日本サッカーリーグ]](JSL)で低迷していた古巣の[[日立製作所本社サッカー部]]に請われ、監督に就任。サッカー部の体制を改革し、1972年には念願のJSL優勝を遂げた。同年と1975年には天皇杯を制覇するなど、日立サッカー部の黄金期を築くことになった。