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[[南方作戦]]での日本軍の進撃は留まる事を知らず、やがて[[ジャワ島]]に対しても空襲が行われるようになった。連合軍は[[ホーカー ハリケーン]]や[[F2A (航空機)|ブリュスター バッファロー]]で対抗したが、日本機の敵ではなかった。連合軍は更なる戦闘機を欲し、[[インド]]に輸送途中の[[P-40 (航空機)|カーチス P-40]]を引き抜くことにした<ref>永井、木俣, 117ページ</ref>。2月22日、ラングレーは元飛行甲板上に32機のカーチス P-40 を乗せ、セイロン行きの MS-5 船団と共にオーストラリアの[[フリーマントル (西オーストラリア州)|フリーマントル]]を出航した。その翌日、{{仮リンク|コンラッド・ヘルフリッヒ|en|Conrad Emil Lambert Helfrich}}中将<ref>1945年9月2日の[[降伏文書|降伏文書調印式]]におけるオランダ代表</ref>は P-40 を大至急輸送するよう命じ、ラングレーは、同じくP-40 を輸送していた貨物船と共に、護衛なしでジャワ島南岸部の{{仮リンク|チラチャップ|en|Cilacap Regency}}に向かったが、貨物船は次第にラングレーから離されていった<ref>永井、木俣, 119ページ</ref>。
 
5日後の2月27日の早朝、ラングレーは出迎えに来た[[駆逐艦]][[:en:USS Whipple (DD-217)|ホイップル]] (''USS Whipple, DD-217'') および[[:en:USS Edsallエドサル (DD-219駆逐艦)|エドサル]] (''USS Edsall, DD-219'') と合流した。その前後、すでに[[バリ島]]に進出していた[[高雄海軍航空隊|高雄航空隊]]の[[一式陸上攻撃機|一式陸攻]]が艦船攻撃のためバリ島を離陸した。11時40分、ラングレー、ホイップル、エドサルの3隻はバリ島西方368海里の地点<ref name="a">『戦史叢書26』476ページ</ref>で一式陸攻9機の攻撃を受ける。3隻は爆撃を受けると同時に各方向に分離して回避運動を始めた<ref name="a">『戦史叢書26』476ページ</ref>。攻撃第一波と第二波は失敗に終わったが、三度目の攻撃で爆弾が命中する。この時、攻撃隊は陸上攻撃用の爆弾しか抱えていなかったが<ref name="b">『戦史叢書26』477ページ</ref>、それでも250キロ爆弾3発と60キロ爆弾3発が命中した<ref name="a">『戦史叢書26』476ページ</ref>ラングレーは大破し、操舵が困難となる。P-40 も爆弾命中により次々炎上し<ref name="b">『戦史叢書26』477ページ</ref>、折からの強風で消火が困難となった<ref>永井、木俣, 121ページ</ref>。機関室も浸水し、ラングレーの今の状況ではチラチャップ湾の入江を通行することができないと見られた。ホイップルかエドサルのどちらかがラングレーの被爆を暗号を使わずに発信。これを受信した攻撃隊は敵戦闘機の来襲を警戒して、足早に戦場を去っていった<ref name="b">『戦史叢書26』477ページ</ref>。攻撃隊より先に発進した[[零式艦上戦闘機|零戦]]の一隊は、炎上中のラングレーを発見して[[機銃掃射]]を加えた<ref name="b">『戦史叢書26』477ページ</ref>。
 
ラングレーはもはや如何ともし難い状況になり、13時32分に至って艦の放棄が命じられた。ラングレーを処分するためホイップルが4インチ砲弾9発及び2本の[[魚雷]]を発射し、ラングレーはチラチャップの南120キロの水域で沈没した。ラングレーの乗組員はホイップルとエドサルに救助され、それから給油艦[[ペコス (AO-6)|ペコス]] (''USS Pecos, AO–6'') に移されたが、3月1日にペコスも[[南雲忠一]]中将率いる[[機動部隊]]の空襲により撃沈されたため、ラングレー乗組員も多数死亡した。