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=== 内務省時代 ===
東京帝大卒業後、[[高等文官試験]]合格。内務畑を歩み[[1916年]]、[[内務省 (日本)|内務省]]内務書記官・土木局道路課長。[[1922年]]内務省参事官兼内務大臣秘書官・大臣官房文書課長となり、道路課長を兼務<ref name="土木人物"/>。[[1919年]]公布された[[道路法]]([[道路法|旧道路法]])の起草者で、道路課長として重任を担当し立案に尽力<ref name="土木人物"/><ref>[http://133.30.51.93/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00095381&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 欧洲の道路 日本とは雲泥の違い - 神戸大学附属図書館]、[http://www.teipark.jp/display/pdf/research_01_07.pdf 近代日本における電信電話施設の道路占用 - 逓信総合博物館]</ref>。立案に際し[[欧米]]の道路視察の他、[[王朝時代]]から[[江戸時代|徳川時代]]の[[古典]]類を研究して、恒久的政策を樹立し、それを基礎として立法した<ref name="土木人物"/>。佐上の研究を基礎として各[[法案]]が決められた<ref name="土木人物"/>。当時、道路法は法学界において模範的な立法として讃えられたが、それは佐上の努力によるところが大であった<ref name="土木人物"/><ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00095434&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 英国道路改良政策 (一〜四) : 確立したは=失業救済から ]</ref>。[[1924年]]人事課長時代には広島中学の後輩・[[灘尾弘吉]]を内務省入りさせた<ref name="nikkei"/>。
 
=== 知事時代 ===