「豊嶌雅男」の版間の差分

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[[興國高等学校|興國商業学校]]時代は[[柔道]]で鳴らし、[[1937年]]5月場所に[[出羽海部屋]]から[[初土俵]]を踏む。[[1941年]]5月場所で新入幕を果たすと、この場所では11勝4敗の好成績を挙げる。[[1942年]]1月場所には[[双葉山定次]]から[[金星 (相撲)|金星]]を獲得して10勝5敗、その後も勝ち越しを続け、[[関脇]]に昇進した。[[安藝ノ海節男]]に続く出羽海部屋一門の有望株として期待されたほか、突き押し一途の取り口が戦時中の社会情勢とも合致したため、人気力士として名が挙がるほどであった。このように双葉山定次には2勝5敗と善戦したが、[[羽黒山政司]]には6連敗と全く勝てず、[[佐賀ノ花勝巳]]にも1勝6敗と苦戦と波のある成績が原因で関脇止まりであった。それでも彼が後述の通り25歳の若さで[[東京大空襲]]の犠牲にならなければ将来は[[横綱]]にもなれただろうと、先輩の安藝ノ海は後に語っていた。
 
[[1944年]]11月場所には横綱の再び[[双葉山定次]]に勝って2度目の金星を挙げたが、これが最後の華となった。翌年、彼は不幸にも[[1945年]][[3月10日]]の[[東京大空襲]]で被災し、現在の[[隅田川]]沿いの[[東武スカイツリーライン]]の鉄橋下で、焼けた両腕で岸辺に掴まったままの姿で焼死体となって発見された。{{没年齢|1919|12|23|1945|3|10}}。なお、この大空襲では、元[[小結]]で当時[[前頭]]であった[[枩浦潟達也]]も大相撲関係の犠牲者の一人に数えられている。
 
== 主な成績 ==