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→‎前期: 前版でご指摘の会津復帰(古代史上で会津に至った武渟川別命と考古学との対照として有用と判断)、前橋天神山古墳の記述は取り消し。
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[[ファイル:Ota Gunma Otatenjinyama Tumulus Panorama 1.JPG|thumb|280px|right|[[太田天神山古墳]]([[群馬県]][[太田市]])<br/>東日本最大の[[前方後円墳]]。毛野政権首長の墓と推定される。]]
[[ファイル:古墳時代の主な勢力 (毛野).jpg|thumb|320px|right|[[古墳時代]]の主な勢力と毛野<ref name="詳説"/>]]
'''毛野'''(けの、けぬ)は、[[律令制]]以前の日本における地域・文化圏の名称。古代史料によると[[常陸国]]筑波西部の郡はもともと紀の国(きのくに)であり、ここを流れる[[鬼怒川|毛野河]]は各郡の境界を成していたことが分かっている<ref>『常陸国風土記』</ref><ref>『続日本紀』</ref>。このことから、[[下野国]][[河内郡]]衣川郷を毛野の起源とする説も見られる<ref>『上野名跡志』</ref>。また[[日本書紀]]の[[日本武尊]]の伝承に「上野」(上毛野ではない)と「碓日坂」が見られ、それぞれ[[上野国]]と[[碓氷峠]]に比定されており<ref>『日本書紀』</ref><ref>『古事記伝』</ref>、また上毛野国(上野国)と下毛野国(下野国)は毛野を分かった後の国名とされており<ref>『国造紀』</ref>、古代那須国の比定地が下野国北部(現在の栃木県北部)であることから<ref>『日本国郡沿革考』</ref>、毛野とは[[群馬県]]と[[栃木県]]南部付近にあった文化圏と考えられている<ref name="世界大百科">『世界大百科事典』(平凡社)毛野項。</ref>。
'''毛野'''(けの、誤って けぬ とも)は、[[律令制]]以前の日本における地域・文化圏の名称。[[群馬県]]と[[栃木県]]南部を合わせた地域を指す<ref name="世界大百科">『世界大百科事典』(平凡社)毛野項。</ref>。
 
== 概要 ==
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毛野の比定域内である北関東には[[古墳時代]]に数多くの[[古墳]]が築かれたことが知られる。特に群馬県内では、東日本最大の'''[[太田天神山古墳]]'''(群馬県[[太田市]]、全長210メートルで全国26位)<ref group="注" name="東日本最大">なお、以前には太田天神山古墳以上の規模と推考される古墳の議論がなされていた。1つには、推定全長220メートル以上として雷電山古墳(栃木県宇都宮市)が挙げられることがあったが(『栃木県の地名』雷電山古墳項等)、1990年の調査で推定古墳跡地上で住居跡が見つかり、大規模古墳であることは否定されている<!--(『下野新聞』1990年4月12日記事):未確認-->。また、米山古墳(栃木県佐野市)も「米山丘陵全体が古墳」だとして全長約360メートルとする説があったが(現地説明板等)、現在はほぼ否定されている([http://www.tochigi-edu.ed.jp/center/bunkazai/2341027.htm 米山古墳](とちぎの文化財))。</ref>を始めとして、全長が80メートルを越す大型古墳が45基、総数では約1万基もの古墳が築かれた<ref group="注">1935年の調査で群馬県内では8,423基の古墳が確認されている(『上毛古墳綜覧』)。調査漏れや埋没古墳を含めると1万基を下らなかったとみられている(『群馬県の地名』総論 遺跡からみた原始・古代節)。</ref>。古墳時代の主な勢力には畿内のほかに毛野、[[尾張国|尾張]]・[[美濃国|美濃]]、[[吉備国|吉備]]、[[古代出雲|出雲]]、[[筑紫国|筑紫]]、[[日向国|日向]]が挙げられるが<ref name="詳説">『詳説 日本史図録』(山川出版社、第5版)p. 26。</ref>、全長200メートル以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、毛野のみであった。加えて王者特有の[[石棺|長持形石棺]]が使われ、毛野の特筆性がうかがわれる。
北関東の[[群馬県]]と[[栃木県]]南部を合わせた領域を指す地域名称、または[[ヤマト王権]]時代に同地域に築かれていたとされる勢力を指す名称である。
 
地域内には[[古墳時代]]に数多くの[[古墳]]が築かれたことが知られる。特に群馬県内では、東日本最大の'''[[太田天神山古墳]]'''(群馬県[[太田市]]、全長210メートルで全国26位)<ref group="注" name="東日本最大">なお、以前には太田天神山古墳以上の規模と推考される古墳の議論がなされていた。1つには、推定全長220メートル以上として雷電山古墳(栃木県宇都宮市)が挙げられることがあったが(『栃木県の地名』雷電山古墳項等)、1990年の調査で推定古墳跡地上で住居跡が見つかり、大規模古墳であることは否定されている<!--(『下野新聞』1990年4月12日記事):未確認-->。また、米山古墳(栃木県佐野市)も「米山丘陵全体が古墳」だとして全長約360メートルとする説があったが(現地説明板等)、現在はほぼ否定されている([http://www.tochigi-edu.ed.jp/center/bunkazai/2341027.htm 米山古墳](とちぎの文化財))。</ref>を始めとして、全長が80メートルを越す大型古墳が45基、総数では約1万基もの古墳が築かれた<ref group="注">1935年の調査で群馬県内では8,423基の古墳が確認されている(『上毛古墳綜覧』)。調査漏れや埋没古墳を含めると1万基を下らなかったとみられている(『群馬県の地名』総論 遺跡からみた原始・古代節)。</ref>。古墳時代の主な勢力には畿内のほかに毛野、[[尾張国|尾張]]・[[美濃国|美濃]]、[[吉備国|吉備]]、[[古代出雲|出雲]]、[[筑紫国|筑紫]]、[[日向国|日向]]が挙げられるが<ref name="詳説">『詳説 日本史図録』(山川出版社、第5版)p. 26。</ref>、全長200メートル以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、毛野のみであった。加えて王者特有の[[石棺|長持形石棺]]が使われ、毛野の特筆性がうかがわれる。
 
また『[[日本書紀]]』には、第10代[[崇神天皇]][[皇子]]・[[豊城入彦命]]に始まる独自の[[上毛野氏]]伝承が記されている。その中で各人物は対[[蝦夷]]・対朝鮮の軍事・外交に携わっており、当地の豪族がヤマト王権に組み込まれた後も、王権内で重要な役割を担っていたことが示唆される(詳しくは「'''[[上毛野氏]]'''」を参照)。
 
史書には「毛野」の名称自体は使われていないが、'''上毛野'''(かみつけの/かみつけぬ)・'''下毛野'''(しもつけの/しもつけぬ)の呼称があり、毛野が分かれた後のものといわれる。のち、両地域は[[令制国]]として[[上野国]](こうずけ:[[群馬県]]領域)・[[下野国]](しもつけ:[[栃木県]]領域)と定められた。そのほか「[[東毛]]」「[[西毛]]」「[[両毛]]」という表現や、[[鬼怒川]]の読み「きぬがわ」が「毛野川」の派生とされるように<ref name="栃木県"/>、名残は地域内の随所に伝わっている。
 
== 「毛野」の由来と読み ==
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=== 読み ===
「けの」または「けぬ」。
江戸時代以後、「毛野」は誤って「けぬ」と呼ばれていた<ref>『大辞林』(第三版)毛野項。</ref>。これは、当時の読みを伝える[[万葉仮名]]において、「努」の読みに2説があったためである。すなわち、『[[万葉集]]』では「毛野」の読みに「氣努」「氣乃」「氣野」「家野」「家努」の仮名があてられており<ref group="注">『万葉集』における表記は以下の通り。()内は歌番号。'''上つ毛野''':「可美都氣努」(3404・3407・3415・3416・3417・3418・3420・3423)、「可美都氣努/可美都氣乃」(3405)、「可美都氣野」(3406)、「賀美都家野」(3412)、「可美都家野」(3434)。'''下つ毛野''':「之母都家野」(3424)、「志母都家努」(3425)([http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php 万葉集検索システム](山口大学教育学部)参照)。</ref>、うち「野」は「ノ(甲類)」、「乃」は「ノ(乙類)」の読みであるが、「努」には「ヌ」「ノ(甲類)」の2通りがあるとされていた<ref>「[[万葉仮名]]」参照。</ref>。しかしながら「ノ(甲類)」である論証がなされ<ref group="注">日本古典文学大系本『萬葉集 一』(岩波書店、昭和32年)において論証されている(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』序文より)。</ref>、『万葉集』の訓読においては「努」は「ノ」と読むのが一般的である<ref>[http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php 万葉集検索システム](山口大学教育学部)、佐佐木信綱『新訓萬葉集』(岩波文庫)参照。</ref>。そのため現在では、「けの」が正しい読みとされる{{Sfn|熊倉|2008年2月|p=5}}。
 
江戸時代以後、「毛野」は誤って「けぬ」と呼ばれていたとする説がある<ref>『大辞林』(第三版)毛野項。</ref>。これは、当時の読みを伝える[[万葉仮名]]において、「努」の読みに2説があったためである。すなわち、『[[万葉集]]』では「毛野」の読みに「氣努」「氣乃」「氣野」「家野」「家努」の仮名があてられており<ref group="注">『万葉集』における表記は以下の通り。()内は歌番号。'''上つ毛野''':「可美都氣努」(3404・3407・3415・3416・3417・3418・3420・3423)、「可美都氣努/可美都氣乃」(3405)、「可美都氣野」(3406)、「賀美都家野」(3412)、「可美都家野」(3434)。'''下つ毛野''':「之母都家野」(3424)、「志母都家努」(3425)([http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php 万葉集検索システム](山口大学教育学部)参照)。</ref>、うち「野」は「ノ(甲類)」、「乃」は「ノ(乙類)」の読みであるが、「努」には「ヌ」「ノ(甲類)」の2通りがあるとされていた<ref>「[[万葉仮名]]」参照。</ref>。しかしながら「ノ(甲類)」である論証がなされ<ref group="注">日本古典文学大系本『萬葉集 一』(岩波書店、昭和32年)において論証されている(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』序文より)。</ref>、『万葉集』の訓読においては「努」は「ノ」と読むのが一般的である<ref>[http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php 万葉集検索システム](山口大学教育学部)、佐佐木信綱『新訓萬葉集』(岩波文庫)参照。</ref>。そのため現在では、「けの」が正しい読みとされの説がある{{Sfn|熊倉|2008年2月|p=5}}。
 
一方で、事実上、史書にもある毛野河から転じたと考えられる「衣川」([[倭名類聚抄]]等)「絹川」「鬼怒川」はすべて「きぬがわ」と読まれており、また『万葉集』でも「努」はもとより「野」を「ヌ」の読みに充てる例もあることから、「けの」または「けぬ」とするのが一般的である<ref name="世界大百科"/><ref>日本大百科全書、ニッポニカ・プラス(小学館)</ref><ref>大辞泉(JapanKnowledge)</ref>。
 
== 範囲 ==