「ライカ」の版間の差分

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== 概略 ==
'''ライカM3'''の後継となるレンジファインダーカメラ「Mシリーズ」や一眼レフカメラ「Rシリーズ」、[[コンパクトカメラ]]、[[プロジェクタ]]、[[フィールドスコープ]]、[[双眼鏡]]など、さまざまな製品を開発・販売しており、そのレンズ描写性能などクオリティの高さから現在でもプロカメラマンをはじめアマチュアでもコレクターや愛好者が多い。またデジタルカメラの分野においても[[パナソニック]]と提携を行なっている他、Rシリーズ用のデジタルカメラモジュールやMシリーズのデジタル版'''ライカM8'''の開発・発売、中判クラスのデジタル一眼レフカメラ'''ライカS2'''の開発発表、デジタル一眼レフカメラ共通規格である[[フォーサーズシステム]]への賛同などが行われている。
 
1930 - 1940年代ごろには「'''ライカ1台あれば家が一軒建てられる'''」と言われた。例えばアサヒカメラ1939年11月号に掲載されている'''ライカIIIaクローム'''+'''エルマー'''50mmF3.5の価格は820円、'''ライカIIIaクローム'''+'''ズマール'''50mmF2は1200円であった。当時小さな貸家が500円で建てられ、1000円あれば場所にもよるが東京で土地付き一軒家が購入できた<ref name="clacamesenka19-81">『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.81。</ref>。ただし、これには「カメラが高かった」ということだけでなく第二次世界大戦突入によりドイツからの輸入が困難になって価格が高騰した時期であることや、東京の土地が今より格段に安かったという要素もある。
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[[1920年]]にはエルンスト・ライツ1世が亡くなり、跡を継いだ'''エルンスト・ライツ2世'''(''Ernst Leitz II'' )がウル・ライカに着目、改良を加えさせた。折しも大不況の中、社内会議で発売中止に傾く中、'''エルンスト・ライツ2世'''はこれを製造に移すと宣言<ref>『クラシックカメラ専科No.4、名機の系譜』p.5。</ref>し、「ライツのカメラ」('''''Lei'''tz '''Ca'''mera'' )との意で「ライカ」と名付け[[1925年]]に市販一号機'''ライカI(A)'''を生産、販売することになった。
 
それまでのカメラは密着焼きにより写真を作るのが主流であったが、ライカはフィルムが小さく引き伸ばしを前提としたため、当時一般的でなかった引き伸ばし機が当初からシステムの一環として販売された。拡大に耐えるネガを作るために高性能のレンズが必要とされ、レンズ開発の技術者[[マックス・ベレーク]]は'''ライツ・アナスティグマト'''(''Leitz-Anastigmat'' )をはじめとするさまざまな銘玉を世に出した。
 
また一般には「広角気味のレンズを常備し必要ならトリミングする」という手法が使われていたが、ライカの場合トリミングするとただでさえ小さいフィルム面積からの拡大率がより大きくなるため、画角に合ったレンズ交換の必要性が高かった。このため[[1930年]]レンズ交換が可能なライカC型が開発され、[[1931年]]に全てのカメラの[[フランジバック]]が統一され、'''エルマー'''(''Elmar'' )3.5cmF3.5、'''エルマー'''5cmF3.5、'''エルマー'''9cmF4、'''エルマー'''13.5cmF4.5、そして'''ヘクトール'''(''Hektor'' )5cmF2.5と基本的なレンズが揃った。
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=== ミノルタとの提携、ウィルド傘下へ ===
一眼レフカメラ化と低コスト化に乗り遅れたためやがて経営に陰りが出たエルンスト・ライツは、一眼レフカメラ開発で先行する日本の大手カメラメーカーからミノルタカメラ(現[[コニカミノルタ]])に注目、まずM型ライカの外装部品製造を依頼、このことから両社の技術者の相互出張見学を通じて親交を深めていくこととなる<ref name="clacamesenka29-76">『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.76-85。</ref>。それから数年経過した[[1972年]]、エルンスト・ライツはミノルタカメラとカメラの製造を目的とした両社の特許やノウハウの相互提供、技術者の相互派遣、生産設備の相互利用による生産協力等相互協力協定を結んだ<ref name="clacamesenka29-7876">『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.78。< /ref>。エルンスト・ライツが外国企業と提携したのは初めてのことで、この提携ニュースは日本・アメリカ・ドイツで大きく報道された。この協力関係に基づき、両社の技術者が協力してミノルタカメラの工場で設計した'''ライカCL'''を[[1973年]]9月に発表・発売に漕ぎ着け、'''ライカフレックスSL2'''をほとんどミノルタカメラで生産、'''ミノルタXE'''の基本構成を'''ライカR3'''以降に流用したりと一定の成果を上げた。その後提携は解消されたが、この技術提携によって双方の技術がその後の両社の技術開発に多大な影響を与えた。
 
しかし経営好転までには至らず、[[1973年]]のうち<ref name="clacamesenka29-7876" />に、もしくは[[1974年]]<ref name="clacamesenka28-38">『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』p.38。</ref>スイスのウィルドがライツ一族の株式を買い取った。エルンスト・ライツ3世は代表権を失い、[[1979年]][[9月8日]]死去した<ref name="clacamesenka29-7976">『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.79。< /ref>。株式の53%を取得したウィルドの傘下で「当面ライカの製造は続ける」と発表されたが、[[1974年]]に生産され[[1975年]]に販売されたライカ発売50周年記念モデルを最後にウェツラー工場での生産は途絶え、社員6500名の過半数を減員し工場も整理され<ref name="clacamesenka29-7876" />、かろうじてポルトガル工場で'''ライカR3'''の製造が続けられるだけとなった。機械が搬出され倉庫が整理され競売にかけられたためにライカ発売以来一般人の目に触れることのなかった試作品等が突然流通するようになり<ref name="clacamesenka29-7976" />、この混乱の中で発売された'''ライカM4-2'''の初期製品では、検査部門の存在自体疑われるような不良品が流通した<ref name="clacamesenka28-39">『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』p.39。</ref>。その後はどこでライカを製造しているのかよく分からない状態が続いた<ref name="clacamesenka29-76" />
 
=== メーカー名となったライカ ===
[[1988年]]になると「ウィルドはライカを製造しないので、工場を出た人たちでブランドを使用しても良い」旨の発表がされ、ソルムスに敷地が用意されたがエルンスト・ライツ・ウェツラーの名称は使用許可されなかったためメーカー名を「ライカ」とし、ウィルドの子会社としてカメラメーカーを立ち上げた<ref name="clacamesenka29-76" />。[[1990年]]に「ライカカメラ」に商号変更した<ref name="clacamesenka29-76" />
 
その後[[エルメス]]の資本も一時期入り、その時期にはその革を使用した特別モデル等も発売されていたが、経営状態の改善が進まずエルメスは撤退した。[[2009年]]現在は次の3社に分かれている。
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=== 松下電器産業との提携 ===
*[[2000年]]、松下電器産業(現[[パナソニック]])とデジタルAV機器用レンズに関する技術協力契約を締結、'''ディコマー'''(''DICOMAR'' )レンズを搭載したデジタルビデオカメラなど3機種を開発・発売している。松下とはそれ以前からフィルム・コンパクト機(製造は松下系列の旧ウエスト電気(現[[パナソニック フォト・ライティング]]))のOEM供給を受けている。さらに[[2001年]]にはデジタルカメラ分野においても提携を行ない、レンズの光学系はライカと共同開発しライカのライセンスを受けて生産を行なっているほか、松下からのOEM供給によるライカブランドでの販売も行っている。松下が[[フォーサーズシステム]]によるデジタル[[一眼レフカメラ]]に参入した際にも同規格に賛同し、レンズのライセンス許諾による供給を行なうことになっており、ライカブランドでも'''[[パナソニック・ルミックスDMC-L1|DMC-L1]]'''のOEMモデル'''[[DIGILUX 3]]'''が発売されている。
 
== 製品 ==
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==== 贈呈品 ====
エルンスト・ライツは古くから特別な製造番号の顕微鏡を商品とせず、著名な科学者等に贈っており、当時これは[[ノーベル賞]]と比較されるほど名誉なこととされており、歴史はそれより古かっ<ref name="clacamesenka1-115">『クラシックカメラ専科』p.115-116。</ref>。これはライカカメラ発売後も続いた<ref name="clacamesenka1-115" />。贈呈されたライカカメラは以下が知られている。
*280 - '''ライカI(A)'''、1925年。[[フェルディナント・フォン・ツェッペリン]]<ref name="clacamesenka1-115" />
*10000 - '''ライカI(A)'''、1928年。[[フーゴー・エッケナー]]<ref name="clacamesenka1-116leicaluckynumberwebpriwar">『ク[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic18.html Internet Photo Magazine Japan第4回シックメラ専科』p.116。物語4]</ref>。
*15000 - '''ライカI(A)'''、1929年。[[スヴェン・ヘディン]]<ref name="clacamesenka1-116115" />。
*50000 - '''ライカI(C)'''、1930年。ドイツの探検家、[[ヴィルヘルム・フィルナー(''Wilhelm Filchner'' )]]<ref name="clacamesenka1-116115" />。
*75000 - '''ライカII'''、1932年。[[オーギュスト・ピカール]]<ref name="clacamesenka1-116115" /><ref name="leicaluckynumberwebpriwar" />。
*100000 - '''ライカII'''、1933年。人類学者、アフリカ探検家レオ・フロベニウス(''Leo Frobenius'' )<ref name="clacamesenka1-116115" /><ref name="leicaluckynumberwebpriwar" />。
*125000 - 登山家、ギュンター・オスカー・ディーレンフルト([[:de:Günter Dyhrenfurth|''GüntherGünter Oskar Dyhrenfurth'' ]])<ref name="clacamesenka1-116115" />。
*150000 - コダクローム共同発明者、レオポルド・ゴドウスキー・ジュニア(''Leopold Godowsky Jr.'' )<ref name="clacamesenka1-116115" />。
*157000 - コダクローム共同発明者、レオポルド・マンネス(''Leopold Mannes'' )<ref name="clacamesenka1-116115" />。
*200000 - ライカを愛用した小型カメラ写真の先駆者、パウル・ヴォルフ(''Paul Wolff'' )<ref name="clacamesenka1-116115" /><ref name="leicaluckynumberwebpriwar" />。
*230000 - '''ライカIIIa'''、1935年。日本写真歴史保存会会長、河原栄一。事前に通知が来てレンズは好きなものを選択でき、贈られたボディーの巻き上げノブの上に「E.Kawahara」と刻印されていたという<ref name="clacamesenka1-116115" />。
*250000 - '''ライカIIIa'''、1937年。[[ヴィルヘルム・フィルナー]]、中央アジアに残して来たNo.50000に代えて贈られた<ref name="clacamesenka1-116115" />。
*300000 - '''ライカスタンダード'''、1938年。アグファカラーの発明者グスタフ・ウィルマンズ(''Gustav Wilmanns'' )<ref name="leicaluckynumberwebpriwar" />
*350000 - '''ライカIIIb'''、1940年。アグファカラーの発明者ウィルヘルム・シュナイダー(''Wilhelm Schneider'' )<ref name="leicaluckynumberwebpriwar" />
*375000 - '''ライカIIIc'''、1941年。ドイツ陸軍軍人、[[エルヴィン・ロンメル]]。
*400000 - '''ライカIIIc'''、1945年。ウィルヘルム・シュナイダー、No.350000が損耗したため<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar">[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>。
*450000 - '''ライカIIIc'''、1948年。ドイツユースホステル創業者、[[リヒャルト・シルマン]]<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*500000 - '''ライカIIIc'''、1950年。エルンスト・ライツ2世<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*555555 - 金メッキされた'''ライカIIIf'''、1951年。[[ダライ・ラマ14世]]<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.033。</ref><ref name="leicaluckynumberwebpostwar" />。
*600000 - '''ライカIIIf'''、1952年。海洋生物学者、ウィリアム・ベーベ(''William Beebe'' )<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*650000 - '''ライカIIIf'''、1953年。登山家、ノーマン・ギュンター・ディーレンフルト([[:de:Norman Dyhrenfurth|''GunterNorman Günter Dyhrenfurth'' ]])<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*666000 - '''ライカIIIf'''、1953年。登山家、[[エドモンド・ヒラリー]]<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*700000675000 - '''ライカM3IIIf'''、195519536月山岳写真家位相差顕微鏡発明者スキーヤー、ステ[[ァンリッツンハウザー(''Stefan Kruckenhauser'' )]]<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*750000700000 - '''ライカM3'''、1955年6月山岳写真家、[[アスキーヤー、シュテファティエ=ブレ]]ハウザー(''Stefan Kruckenhauser'' )<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*800000750000 - '''ライカM3'''、1955年。写真家、[[ラートアデナウアーカルティエ=ブレッソン]]<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*830000800000 - '''ライカM3'''、19531955年。[[ジャワハルコンラーネルアデナウアー]]<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*900000830000 - '''ライカM3'''、19571956年。エドウィン・ウィッシ[[ジワハルラール・ネル]]<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*919000900000 - '''ライカM3'''、19581957年。[[リザベス2世 (イギリス女王)]]ドウィン・ウィッシャード<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*980000919000 - '''ライカM3'''、19591958年。ドイツ連邦大統領[[テオワイトールD・アゼンハワース]]の訪英時イギリス女王、[[エリザベス2世]]に紋章入りで贈られた<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*1000000980000 - '''ライカM3'''、19601959年。エルドイツ連邦首相[[コラート・アデナウアー]]からアメリカ大統領、[[ドワツ3世ト・D・アイゼンハワー]]に贈られた<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*10000011000000 - '''ライカM3'''、1960年。写真家、[[アフレッド・アイゼンスタッ]]・ライツ3世<ref name="leicaluckynumberwebleicaluckynumberwebpostwar" />。
*1000001 - '''ライカM3'''、1960年。写真家、[[アルフレッド・アイゼンスタット]]<ref name="leicaluckynumberwebpostwar" />。
*1259999 - '''ライカフレックスSL'''、1970年。レオポルド・ゴドウスキー・ジュニア。
 
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== 関連する作品 ==
*『[[ちびまる子ちゃん]]』- 作品中で「[[ちびまる子ちゃんの登場人物#その他の人達|穂波真太郎]](たまちゃんのお父さん)」がライカを使用している。このカメラは当初写真コンテストの賞品として貰ったという設定の'''ライカM3'''であったが落下させて故障させ、花輪くんの家に使われずに眠っていた'''ライカM4'''をもらって使用している<ref group="注釈">ただしそれほど厳密に設定されていない。</ref>。このことから代理店だった日本シイベルヘグナーは「老若男女の幅広い層にライカのブランド名を親しみやすく浸透させるのに大きく貢献していただいた」と'''ライカR7うるし'''を作者の[[さくらももこ]]に贈呈している<ref>『フォトニュース』1997年VOL.3、p.2。</ref>。
 
== 脚注 ==
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*『別冊ステレオサウンド ヴィンテージカメラセレクション』ステレオサウンド ISBN4-88073-035-1
*『フォトニュース』日本シイベルヘグナーライカバルナック事務局
*『クラシックカメラ専科』[[朝日ソノラマ]]
*『クラシックカメラ専科No.2、名機105の使い方』朝日ソノラマ
*『クラシックカメラ専科No.4、名機の系譜』朝日ソノラマ