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Kitty1976 (会話 | 投稿記録)
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1911年に中国人の血をひくビルマ人家庭に生まれ、医師を希望していたがあきらめてラングーン大学を中退する。郵便局員を経て「われらビルマ人連盟」(ドバマ協会; Dobama Asiayone, もしくはタキン党)に加入する。[[援蒋ルート]]壊滅のためにビルマに目を付けた日本軍と接触。1941年2月に[[アウンサン]]率いる青年活動家グループ'''「三十人の志士」'''の一人として[[南機関]]に[[海南島]]で過酷な軍事訓練を受ける。彼らは12月に[[バンコク]]に移動し[[ビルマ国民軍|ビルマ独立義勇軍]]を結成。ネ・ウィンは、国内撹乱を目的とするゲリラ班の班長として1942年1月に日本軍とともにビルマに進軍した。日本の敗勢が明らかになった1945年3月に対日反乱を起こし日本軍を攻撃する。
 
イギリスの復帰を経て1948年ビルマは独立するが、その直後から反乱が続いた。また、[[シャン州]]や[[カチン州]]では[[中国国民党]]の残党が中国から侵入し、実効支配する有様であった(中国共産党に対する大陸反攻の拠点として、アメリカはビルマ政府を半ば無視する形で公然と国民党部隊に軍事援助を行なった)。様々な勢力の寄り合い所帯であったビルマ軍においては少数民族出身者や左翼系の将兵を中心に脱走・離脱が相次ぎ、一時的にビルマ政府の支配力はラングーン周辺までに減退させられた。このときウー・ヌ政権において、国軍の最高指揮官(国防相)だったネ・ウィンは、少数民族の将兵を罷免するなどして、[[ビルマ族]]を中心とした国軍への立て直しに成功。海外からの軍事物資の支援を例外として、ほぼ自力で平野部でのビルマ政府の支配権を回復させるまでに至る。また、中国国民党残党に対して、中華人民共和国の人民解放軍と連携しシャン州で掃討作戦を展開するなど、ビルマ国内からの排除に成功した。また、ビルマ共産党は国軍の反撃によって1960年代前半までに、平野部における解放区や陣地の大半を失う事となった。
 
こうした実績に自信がついた1962年には、[[クーデター]]を決行して政権を握った。ビルマ独自の[[社会主義]]政策([[ビルマ式社会主義]])を採り、革命評議会議長を経て1974年から7年後の辞職まで大統領になった。辞職後も[[ビルマ社会主義計画党]] (BSPP) 議長を務め国政に君臨した。この期間のビルマは、外交では厳正な中立政策をとり、ビルマ共産党や各地の少数民族民兵組織との内戦において、諸外国の介入を防ぐ事に成功する公然と1965年以降、ビルマ共産党への大規模な支援を行なっ開始した中国との緊張関係を除けば、[[ベトナム戦争]]など近隣諸国の混乱に巻き込まれずにすんだ。しかし、経済政策では完全に失敗し世界の[[後発開発途上国|最貧国]]に転落した。
 
1988年に国民の不満が爆発した民主化要求デモ([[8888民主化運動]])が発生。責任を取って党議長を辞任したが、その時の演説では'''「軍は国民に銃口を向ける」'''と民主化勢力を牽制した。辞任後も隠然たる影響力を持ち晩年は、それまでの外交における中立の姿勢にもかかわらずアメリカを批判していた。