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文化財 = 大塔([[国宝]])<br/>大師堂、大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像([[重要文化財]])<br/>根来寺庭園(国の[[名勝]])<br/>根来寺境内(国の[[史跡]])|
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'''根来寺'''(ねごろじ)は[[和歌山県]][[岩出市]]にある[[新義真言宗]]総本山の寺院。山号を一乗山と称し、詳しくは'''一乗山大伝法院根来寺'''と号する。本尊は[[大日如来]]、開山は[[覚鑁]](
== 歴史 ==
[[平安時代]]後期の[[高野山]]の僧で[[空海]]以来の学僧と言われた[[覚鑁]]
室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、[[根来衆]]とよばれる僧衆([[僧兵]])1万余の一大軍事集団を擁した。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの[[火縄銃]]一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。[[織田信長]]とは石山合戦に協力するなど友好関係を築いたが、信長没後、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と[[徳川家康]]・[[織田信雄]]の戦いにおいて徳川方に通じ留守の岸和田城を襲ったほか南摂津への侵攻を図ったことで[[豊臣秀吉]]の雑賀攻めを招くこととなった。
生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、[[天正]]13年([[1585年]])、秀吉軍は根来寺に到達。大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちた。根来寺における戦いでは寺衆はほとんど抵抗を行わなかったため焼き討ちの必要性は薄く、炎上の原因は、秀吉による焼き討ち、寺衆による自焼、兵士による放火など多説あるが、定かではない。
大坂の陣で豊臣家を滅びた後、[[徳川家康]]によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲禅寺が根来寺に寄進された。江戸時代には[[紀州徳川家]]の庇護のもと一部が復興された。
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