「トマス・ローランドソン」の版間の差分

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[[Image:Rowlandson - Goodbye.jpg|left|thumb|「さようなら」(''Goodbye'' )]]
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[[Image:Rowlandson-Epicure.jpg|left|thumb|upright|「エピクロスの不安」と題された[[自画像]](1787年)</br>ローランドソンがカリカチュアにするのは他人だけではないことを示している]] commons移動待ち-->
ほどなく金に困るようになったローランドソンに、ジェイムズ・ギルレイやヘンリー・ウィリアム・バンベリーをはじめとした友人たちは生計を立てるために[[風刺画]]を始めてはどうかと勧めた。そこで1784年の王立芸術院の展覧会に出品したボクスホール<!--地名-->の絵をポラードに彫らせて印刷し、出版してみるとこれが成功したのだった。ローランドソンは美術作品を出版していたルドルフ・アッカーマンに多くの仕事を与えられている。アッカーマンは1809年に「詩の雑誌(''Poetical Magazine'' )」、「学校長の旅(''The Schoolmaster’s Tour'' )」などを創刊し、そこにウィリアム・クームによる解題的な詩を添えたローランドソンの版画を双書としていたのである。この2人は居並ぶ画家たちを押さえて最も人気を集めていた。1812年にはローランドソン自身によって再び彫られた版で印刷され、「シンタックス博士のピクチャレスクを探す旅」というタイトルで出版された冒険記は、1813年までに5度も版を重ねている。そして1820年には「シンタックス博士は慰めを求めて」、1821年には「シンタックス博士の三度目の嫁探し」が出版された。
 
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