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* [[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]] (2001 - 2002)
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'''大野 倫''' おおの りん、[[1973年]][[4月3日]] - は、[[沖縄県]]出身の元[[プロ野球選手]][[外野手]])。現在は[[九州共立大学]]沖縄事務所長。
現在は[[九州共立大学]]沖縄事務所長。
 
== 経歴 ==
=== アマチュア時代 ===
[[沖縄県立沖縄水産高等学校|沖縄水産高]]では、2年生の夏に[[外野手]]として[[第72回全国高等学校野球選手権大会|第72回高校野球選手権大会]]に出場。決勝戦では[[南竜次]]を擁する[[天理高等学校|天理高校]]に0-1と惜敗したものの、沖縄県勢として初の準優勝を果たす。このため県民の期待は高まり、2年秋からエースで四番となると大きなプレッシャーを感じたという<ref name="maninichi_20100305">毎日新聞、2010年3月5日付夕刊、九州地方面</ref>。3年の春、[[ダブルヘッダー]]の練習試合で2試合18イニングを[[完投]]した2日後、[[ブルペン]]での投球練習中に右ひじが音を立て激痛が走った。しかし、周囲にはこのことを隠し、通院すれば試合に出場できなくなるため治療せずに練習を続けた<ref name="yomiuri_20101215">読売新聞、2010年12月15日付夕刊、P.3</ref>。なお、エースの座を争った同級生は[[全国高等学校野球選手権沖縄大会|夏の県大会]]が始まる直前に高熱をおして練習試合に登板したが、試合後に[[腎盂腎炎|急性腎盂炎]]のため入院している<ref name="aera_19940702">AERA、1994年7月2日号</ref>。
 
県大会では医者の警告を受けながら[[鎮痛剤|痛み止め]]の注射を打って登板し<ref name="aera_19940702"/>、[[第73回全国高等学校野球選手権大会|第73回高校野球選手権大会]]への出場を決めた。県大会の優勝後は喜びよりも安堵感の方が強かったという<ref name="maninichi_20100305"/>。本大会では2回戦の対[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾]]戦ですでに本来の制球力がない状態だったが<ref>読売新聞、1991年8月17日付朝刊、P.21</ref>、有力な控え投手がいないため決勝まで6試合全てで完投し、3回戦以降は4連投となった。大会中も泊まりがけで[[佐賀県]]の[[整体師]]を訪ねるほど満身創痍だったが、「お前と心中するぞ」という[[栽弘義]]監督の信頼に応えるために投げ続けた<ref>[http://digital.asahi.com/articles/TKY201306240723.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201306240723 (耕論)熱すぎないか高校野球 大野倫さん、軍司貞則さん、コンバットRECさん] 朝日新聞 2013年6月25日</ref>。「沖縄県勢初の夏制覇」の期待がかかる中で登板した[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭]]との決勝戦では[[萩原誠]]に[[本塁打]]を浴びるなど<ref>朝日新聞、1995年7月14日付朝刊、P.27</ref>、13失点で敗れた。毎日、栽監督のマッサージを受け<ref name="yomiuri_20101215"/>、6試合で36失点しながら773球を投げ抜いたが、この決勝戦が大野の最後のマウンドとなった<ref>[http://www.j-cast.com/2013/04/03172359.html?p=all 済美高校「エースの5連投」に異議 投手生命絶たれる危険がある] J-Cast 2013年4月3日</ref>。大会後、右ひじの[[疲労骨折]]と診断され、手術を受けたところ[[剥離骨折]]した親指の爪ほどの骨片が複数摘出された<ref name="yomiuri_20101215"/>。