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袁紹を盟主として反董卓連合が結成された時、張邈は曹操らと共に参戦した<ref>「[[臧洪]]伝」によると、挙兵後に酸棗で弟や[[孔チュウ|孔伷]]など一部の諸侯と共に会盟をしている。</ref>。
 
張邈は弟や曹操、それに[[劉岱 (東莱)|劉岱]]・[[袁遺]]・[[橋瑁]]・[[鮑信]]と共に酸棗に駐屯したが、大半の諸侯が酒宴ばかりで戦をしようとしなかった<ref>当時董卓に仕えていた[[鄭泰]]によると、張邈は「勉強ばかりして書斎に閉じ籠もり、座敷を覗こうともしない人物」と言われている(鄭渾伝が引く『漢紀』、『後漢書』鄭泰伝)。</ref>。
 
曹操が戦をするよう呼び掛けると(武帝紀)、張邈は鮑信と共に曹操の求めに応じ、部下の[[衛茲]]を曹操に同行させた。しかし、曹操達は董卓軍の[[徐栄]]に大敗し、衛茲を戦死させてしまった。また、酸棗の軍勢も兵糧が尽きたため解散となった(「後漢書』)。
 
これ以前、袁紹は董卓を討つべく集まった諸侯に対し、奢った振舞いを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。この時は、曹操が袁紹に取り成したため、危うく難を逃れている。張邈はこの事を知ると、曹操に対し恩義を感じるようになったという。
 
[[長安]]で勃発した政変の結果、[[呂布]]は董卓の部下である[[李カク (後漢)|李{{lang|zh|傕}}]]達に敗れて落ち延び、袁紹の下に身を寄せた。しかしそこで諍いを起こしたため、呂布は袁紹の下からも立ち去ることになった。その後、張邈は呂布と親交を結ぶようになったため、それが原因で袁紹から不興を買うことにつながってしまう。張邈は「いつか、曹操が袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか」と、曹操に疑念を抱くようになったという。一方の呂布は[[張楊]]の下に身を寄せた。
 
興平元年([[194年]])、再び曹操は[[徐州]]の[[陶謙]]を攻めるため本拠を留守にした。この時、張邈は曹操軍の[[陳宮]]から「今こそ曹操の領地を奪う好機」と唆され、また曹操と不仲だった弟にも諭されたため、彼らと結託して呂布を迎え入れ、曹操に対し反乱を起こした。