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[[画像:Kugi nuki01.svg|right|thumb|150pxpx|家紋(江戸時代初期) 釘抜]]
 
'''川勝氏'''(かわかつし)は、日本の[[氏族]]のひとつ。本姓は[[秦氏]]。[[秦河勝]]の後裔と伝えられるが、その系譜は必ずしも明確ではない。分家も少なくないが、[[江戸幕府]]の'''[[幕臣]]川勝氏'''がよく知られている。家紋<ref>家伝によれば、桐に鳳凰は[[聖徳太子]]より拝領の紋、釘抜は[[足利義晴]]([[足利義昭|義昭]]とも)より拝領の紋とされる。また、『[[寛永諸家系図伝]]』によれば、[[寛永]]20年([[1643年]])当時の家紋は釘抜とある。</ref>は、桐に鳳凰、釘抜、五七桐、五三桐など。通し字は、それぞれ「'''広'''」、「'''隆'''」、「'''氏'''」(家紋、通し字とも幕臣川勝氏)。
 
== 経歴 ==
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[丹波国]][[桑田郡]]下田の[[国人領主]]であった[[下田広氏|下田美作守広氏]]<ref>家伝(『[[寛政重修諸家譜]]』編纂時の呈譜など)によれば、下田美作守広氏は秦河勝(広隆)より32代目の嫡流とされる。しかし、『[[寛永諸家系図伝]]』には、広隆と美作守某(丹波国の住人)は「此間断絶す」とある。</ref>の嫡男、[[川勝広継|広継]](光照)のとき'''川勝'''を称したのが始まりだという。家伝によれば、下田美作守広氏は秦河勝(広隆)より32代目の嫡流とされる。川勝氏(下田氏)は桑田郡・[[船井郡]]内を知行し、[[室町幕府]]に仕えてきた。先の[[応仁の乱]]では、幕府の[[管領]]を務めた[[細川勝元]]に従って、他の国人衆とともに合戦に参加した。[[川勝広継]]は12代将軍[[足利義晴]]、13代将軍[[足利義輝]]に仕え、[[北桑田郡]][[美山町 (京都府)|美山町]]静原の島城を本城とし、八木の守護代[[内藤氏]]、京北の[[宇津氏]]、篠山の[[波多野氏]]など、丹波の[[武将|戦国武将]]と対峙した。
 
広継の嫡男'''[[川勝継氏]]'''は[[織田信長]]に従い、[[天正]]元年([[1573年]])、信長の命を受けた[[細川幽斎|細川藤孝]]に従って、[[山城国]]の[[淀古城|淀城]]攻め([[淀古城#第二次淀古城の戦い|第二次淀古城の戦い]])に参加した。また、天正4年([[1576年]])からの[[明智光秀]]の丹波攻略には[[与力]]となって協力した。継氏の嫡男'''[[川勝秀氏]]'''は[[豊臣秀吉]]に仕え、秀吉の[[馬廻]]を務めて、天正10年([[1582年]])、丹波国[[何鹿郡]]内に3,535石を与えられた。また、[[文禄]]元年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役]]では、[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に在陣した。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、嫡男'''[[川勝広綱]]'''とともに西軍に与して[[丹後国|丹後]][[田辺城 (丹後国)|田辺城]]攻撃([[田辺城の戦い]])に参加した。しかし、秀氏父子は[[徳川家康]]に赦されて、[[改易]]を免れることができた<ref>西軍のほとんどが所領没収となった中、[[細川幽斎]]が拠る田辺城攻撃に参加した多くが所領安堵となっている([[関ヶ原の戦いの戦後処理#本領安堵|関ヶ原の戦いの戦後処理]])。ちなみに、秀氏は丹波国何鹿郡内から丹波国[[氷上郡]]・船井郡内に、広綱は丹波国[[多紀郡]]・船井郡内から丹波国船井郡内にそれぞれ転封となった。秀氏の減封の多寡に関しては不詳。</ref>。慶長6年([[1601年]])、[[室町時代|室町期]]以来の丹波の旧族、[[細川忠興|細川三斎]]の推挙により召し出され、秀氏は[[旗本]]家を興した。
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