「芳賀高孝」の版間の差分

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'''芳賀高孝'''(はが たかたか、生没年不詳)は戦国時代の武将。[[芳賀氏]]出身で芳賀氏は下野において[[益子氏]]を棟梁とする紀党と並ぶ[[清原氏]]の一党つまり、清党の棟梁である。父は[[芳賀高益]]。兄弟に[[芳賀景高]]、盛昌院殿般空妙栄([[壬生綱重]]の妻)。
 
[[永正]]9年([[1512年]])に[[芳賀高勝]]が'''[[宇都宮成綱]]'''によって、謀殺されると'''[[宇都宮錯乱]]'''と呼ばれる宇都宮家中を二分する大きな内紛が起き、成綱によってそれを鎮圧されると高孝は[[芳賀高経]]とともに成綱によって助命され、宇都宮城に抑留させられた。その後、高孝は[[宇都宮成綱]]の三男([[宇都宮正綱]]の末子の説もある)・[[宇都宮興綱]]が[[芳賀氏]]を継ぐまでの短い間に芳賀氏を継いでおり、成綱を頂点とす政治的支配体制に取り込まれた
 
永正13年([[1516年]])に英傑・[[宇都宮成綱]]が没した後は、[[芳賀高経]]に協力して、[[宇都宮忠綱]]を[[宇都宮城]]から追放し、[[宇都宮興綱]]を新たな主君に立てた。興綱の代に高孝は重臣として興綱に重用され、[[芳賀氏]]は[[宇都宮錯乱]]で失った権力を瞬く間に取り返した。その後は、[[芳賀高経]]、[[壬生綱房]]とともに[[宇都宮氏]]の筆頭宿老として、政治を横専した。この体制は[[宇都宮尚綱]]の代で[[芳賀高経]]と[[宇都宮尚綱]]が対立する頃まで続いた。
[[天文]]元年([[1532年]])には、[[芳賀高経]]、[[壬生綱房]]とともに[[宇都宮興綱]]を強制的に隠居させ、[[宇都宮尚綱]]に家督を継承させている。当時、主君ですら逆らえないほどの権力を高孝らは持っていた。
 
この体制は[[宇都宮尚綱]]の代で[[芳賀高経]]と[[宇都宮尚綱]]が対立する頃まで続いた。
 
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