「蘇我堅塩媛」の版間の差分

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没後の推古天皇20年([[612年]])2月、欽明天皇の檜隈大陵に合葬され、軽の街で誄を奉る儀式が盛大に行われた。堅塩媛は皇太夫人と尊称され、蘇我馬子の主導のもと[[阿倍鳥]]が[[天皇]]の命を誄し、諸皇子が誄し、[[中臣烏摩侶]]が大臣の辞を誄し、境部摩理勢が氏姓の本を誄した。これは[[蘇我氏]]の絶大な権威を示す儀式であった。
 
なお子の[[桜井皇子]]を通じて、[[皇室]]に蘇我氏の血を残す事になった。その系図は蘇我稲目―蘇我堅塩媛―桜井皇子―[[吉備姫王]]―[[皇極天皇]]―[[天智天皇]]…今上天皇となる。彼女の他に皇室に蘇我氏の血を残した女性は、時代を下り[[藤原不比等]]に嫁いで[[藤原武智麻呂|武智麻呂]]、[[藤原房前|房前]]、[[藤原宇合|宇合]]の三男を儲けた[[蘇我娼子]]のみである。
 
== 系譜 ==