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文化財 = 大塔([[国宝]])<br/>大師堂、大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像([[重要文化財]])<br/>根来寺庭園(国の[[名勝]])<br/>根来寺境内(国の[[史跡]])|
}}
'''根来寺'''(ねごろじ)は[[和歌山県]][[岩出市]]にある[[新義真言宗]]総本山の[[寺院]]。山号を一乗山と称し、詳しくは'''一乗山大伝法院根来寺'''と号する。本尊は[[大日如来]]、開山は[[覚鑁]](興教大師)である。
 
== 歴史 ==
[[平安時代]]後期の[[高野山]]の[[]]で[[空海]]以来の学僧とわれた[[覚鑁]]が[[大治 (日本)|大治]]5年([[1130年]])に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]は覚鑁に帰依し、[[荘園]]を寄進するなど手厚く保護した。2年後の[[長承]]元年([[1132年]])、覚鑁は[[鳥羽上皇]]の[[院宣]]を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立した。さらに2年後の長承3年([[1134年]])、覚鑁は[[金剛峯寺]]座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・[[空海]]の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。[[保延]]6年([[1140年]])には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生。覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。覚鑁は3年後の[[康治]]2年([[1143年]])、円明寺で没する。それから1世紀以上後の[[正応]]元年([[1288年]])、大伝法院の学頭であった[[頼瑜]]は大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った。
 
[[室町時代]]末期の最盛期には坊舎450(一説には2700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、[[根来衆]]とよばれる僧衆([[僧兵]])1万余の一大軍事集団を擁した。また、根来寺僧によって[[種子島]]から伝来したばかりの[[火縄銃]]一挺が持ち帰られ、僧衆による[[鉄砲]]隊が作られた。[[織田信長]]とは[[石山合戦]]に協力するなど友好関係を築いたが、信長没後、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と[[徳川家康]]・[[織田信雄]]の戦いにおいて徳川方に通じ留守の岸和田城を襲ったほか南摂津への侵攻を図ったことで[[豊臣秀吉]]の雑賀攻めを招くこととなった。
生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、[[天正]]13年([[1585年]])、秀吉軍は根来寺に到達。大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちた。根来寺における戦いでは寺衆はほとんど抵抗を行わなかったため焼き討ちの必要性は薄く、炎上の原因は、秀吉による焼き討ち、寺衆による自焼、兵士による放火など多説あるが、定かではない。
[[大坂の陣]]で豊臣家を滅びた後、[[徳川家康]]によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲禅寺が根来寺に寄進された。[[江戸時代]]には[[紀州徳川家]]の庇護のもと一部が復興された。
 
[[昭和]]51年([[1976年]])から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。
 
[[2007年]]現在、根来寺境内は近世以前の閑静な佇まいが残されているが、近辺は先の「民俗資料館」や「岩出市立図書館」が建設されるなど、文教地域化政策が[[岩出市]]によって進められている。さらに境内前面には、大型道路(広域農道)が通り、後背の山が砕石場になるなど周辺環境の乱開発が続けられていること、また、境内外れの市立図書館近くにラブホテルが存在することなど、根来文化の保護・継承をめぐる課題は山積している。なお、地域灌漑用水地であった大門池に市立図書館が建設されたことをめぐっては、先の課題による文教政策の見通しの是非をめぐって賛否が分かれている。
 
また毎年興教大師(覚鑁)の誕生日である6月17日の午前中には、40名近くの僧侶が式典を執り行う。
 
== 伽藍 ==