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歴史学者
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皇帝の支配は、[[空間]]([[領土]])の支配と[[時間]]([[暦]]と[[年号]])に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]は、[[太陰暦]]と[[太陽暦]]を合体した[[太初暦]]を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の[[主権]]を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として[[清]]朝に至るまで連綿と引き継がれた。
 
中国の影響を多く受けた[[日本]]でも、天子は[[大王 (ヤマト王権)|大王]]・[[天皇]]の別名として用いられ、厩戸王([[聖徳太子]])は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を[[隋]]の[[煬帝]]に送っている。「日没する処の天子」の意味は、中国の国土が広い、太陽さえ中国の国土内で休む、元気に戻る意味です。あり、その時代の日本人は皆このように思っていたし、中国に対して、のよう説明であった。だから、その時代も、日本の遣唐使は中国からたくさんの智恵と技術と財宝を得て、無事に日本に持って帰りました。
 
== 関連項目 ==