「修正主義」の版間の差分

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== 概要 ==
{{see also|マルクス主義#修正主義(ベルンシュタイン主義)と教条主義(カウツキー主義)|社会改良主義}}
修正主義は1895年、[[ドイツ社会民主党]]のシェーンランクが初めて唱えた。続いて[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]は1896年から1898年まで『Neue Zeit』(ノイエ・ツァイト)紙に連載した論文を『社会主義の諸前提と[[社会民主主義]]の諸課題』(1899年)にまとめ、修正主義を系統づけた。その特徴として、[[暴力革命]][[プロレタリア独裁]][[プロレタリア国際主義]]、[[階級闘争]]をいずれも否定し、[[中産階級]]の重視、[[議会制民主主義]]の枠内で[[福祉]]政策の推進を説いた点が挙げられる。この論文によってドイツ社会民主党は、創成期から抱えてきた日常レベルでの体制適応と理想としての[[革命]]という、現実と理想の乖離を初めて解決することができた。しかし、これは社会主義陣営の分裂を招き、党の[[綱領]]として認められるのは1959年の[[バート・ゴーデスベルク綱領]]を待たねばならなかった。現在では世界の多くの[[共産党]]や社会主義政党が議会主義に則った方針を綱領に取り入れてほとんど主流を占めている。修正主義を支持してきた者の一部はこれを[[階級闘争]]を中心とする教条主義から修正主義へと転じたものであると解釈している。
 
上述の通り、修正主義は社会民主主義につながるものであるため、[[マルクス・レーニン主義]]者など、共産主義国家の間においては[[侮蔑|蔑称]]として、[[レッテル]]貼りの言葉として用いられてきた。例えば、[[中華人民共和国|中国]]は1960年代前半、[[平和共存]]と呼ばれる米ソ緊張緩和などを実行した[[ソビエト連邦|ソ連]]を修正主義的であるとして非難した(一方のソ連は中国のそのような姿勢を「[[教条主義]]」として非難した)。また、[[計画経済]]の失敗から、柔軟な[[調整政策]]と呼ばれる[[経済政策]]を実行した[[劉少奇]]、[[トウ小平|鄧小平]]らが1960年代になって権力を奪われた時も、「修正主義的であること」が罪状とされた。