「小池重明」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ヨモギ (会話 | 投稿記録)
ヨモギ (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''小池 重明'''(こいけ じゅうめい、本名・こいけ しげあき、[[1947年]][[12月24日]] - [[1992年]][[5月1日]])は、[[愛知県]][[名古屋市]]出身の[[将棋アマチュア]]の[[将棋指し]]強豪。アマ最強と呼ばれ、[[賭博|賭け]][[将棋]]で生計を立てる[[真剣師]]としても伝説的な強さだったとされる。「'''新宿の殺し屋'''」「'''プロ殺し'''」など数多くの異名で知られる。
 
== 生涯 ==
13行目:
 
=== アマチュアの頂点と挫折 ===
真剣師から一転、アマチュア将棋の世界に身を投じた小池は[[1980年]]から2年連続で[[将棋のアマチュア棋戦#全日本アマチュア名人戦|アマ名人]]のタイトルを獲得し、名実ともにアマチュア将棋指しのトップに立つ。[[棋士 (将棋)|プロ棋士]]を相手にも次々と勝ち星を重ね、さらに雑誌の企画での[[大山康晴]]名人との対局にも勝利した(角落ち戦での対局)。この事がきっかけとなり、[[花村元司]]([[1944年]]に編入)以来となるアマチュアからプロへの編入の話が持ち上がるなど将棋界に旋風を巻き起こした<ref>プロ棋士になるためには、まず19歳までに[[奨励会]]という棋士養成機関に試験を受けて入会し、その後所定の成績をあげて31歳まで(後に26歳まで)に四段の段位を認定される必要があった。当時小池は既に33歳になっており、プロ入りの為に必要ないずれの条件も満たす事ができなかった。その後、2005年に[[瀬川晶司]]が編入試験に合格し、1944年の花村以来となるプロ編入を果たし、年齢制限を越えた者のプロ棋士への道も開かれている。</ref>。しかし脚光を浴びたがために過去の[[寸借詐欺]]騒動や浪費癖、女性関係のトラブルなど素行の悪さが表面化してしまい、プロ編入の話は[[日本将棋連盟]]により却下されてしまった(この協議の直前にも飲酒によるトラブルでバーの従業員を殴りアマ名人戦直前に警察に連行される不祥事を起こしていた)。プロ入りを熱望していた小池は大きなショックを受け、およそ年の間将棋界から身を退き、肉体労働などで生計を立てていたという。
 
=== 将棋との決別 ===
56行目:
*[[読売新聞]]が主催する将棋大会において、優勝賞金100万円という話を聞きつけた借金取りが、「こんな大金が出る大会であれば優勝するのは小池以外にいない」と、会場の外に何人か待ち構えていた。予想通り優勝を収めて100万円を手にした小池であったが、借金取りに全額持っていかれてしまい、当人の手元には1円も残らなかったという。
*団鬼六が「運転手として雇うからみんなから借りた金を返せ」と言ったところ、小池は「それは無理です」と答えた。実は借金取りから逃げ回るうちに、免許証の更新期限を過ぎてしまいとっくに失効していたのだという。その時小池は一文無しだったが、免許証は団が自腹を切る形で無事取得できたとのこと。
*団と小池が一緒に旅行した際、地方の旅館に一泊した翌朝に小池が「これは先生の取り分です」と団に現金を差し出した。小池は団が眠っている間に同じ宿の博打好きの旅行者らに声をかけ、賭け将棋で片っ端から負かしたのだと言う。それを聞いた団が「まず手持ちの金があることを示さないと相手は博打を受けないだろう。お前、そんな金を持っていたのか」と言うと小池は「ありません」と答えた。小池は眠っている団の姿を対戦相手に見せ、「あの人が自分の雇い主で、自分が負けたらあの人が金を払う」と説明していたのである。事情を知った団は呆れて「負けたらどうするつもりだったんだ」と尋ねたが、小池は笑いながら「素人に僕が負けるわけがないじゃないですか」と答え、「こんな田舎なら僕があの小池だとは誰も知らないし、県代表が相手でも[[将棋の手合割|倍層]](=賭け率2:1)なら軽い」と平然として語ったとう。
*団はアマチュア六段で[[文壇]]でも指折りの実力者であるが、飛車落ちの手合いで小池とおよそ五十局真剣で勝負し、全敗したという。将棋専門誌で団が語ったところによれば、対局中「よければ持ち駒を売りますよ」と小池に声を掛けられ、熱くなっていた団は言われるままに駒を買った。それでも小池の巧みな指し手に手も足も出なかったという。