「大映テレビ」の版間の差分

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== 大映ドラマ ==
[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて大映テレビが制作した実写ドラマは、当初から同業他社のプロダクションが制作する作品に比べ「大げさな、感情以下起伏の激しい芝居」「登場人物が泥沼にはまるストーリー展開」「一見冷静に解説するような体裁をとりつつ、時に状況をややこしくするナレーション」「大げさなBGMの挿入」などの独な演出から、他のドラマと区別する意味で「大映ドラマ」と呼ばれていた。また主題歌も1980年代は洋楽の日本語カバー曲大半をしめ際立っていたのも特徴である。
#感情の起伏の激しい、大げさな台詞。
#主人公が、運命の悪戯に翻弄されながら幸運を手に入れる、いわゆる「シンデレラ的ストーリー」。
#冒頭にも挿入され、一見冷静に解説するような体裁をとりつつ、時に状況をややこしくするナレーション。
#大げさなBGMの挿入。
などの独特な演出から、他の制作会社のドラマと区別する意味で「'''大映ドラマ'''」と呼ばれていた。主題歌も、1980年代は洋楽の日本語カバー曲が大半を占めていたのも特徴である。特に1980年代の「大映ドラマ」は、[[東京放送|TBS]]と[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の2局で大多数が放映されていた。
 
[[作家]]の[[小林信彦]]は、[[戦前|第二次世界大戦前]]には[[時代劇]]が売り物だっにしていた映画会社大映が、[[第二次世界大戦]]で敗戦を迎えての結果、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により占領下の日本では時代劇が禁止されたため、時代劇スターが現代劇を演じざるを得なくなったため、そのオーバー大げさな芝居の時代劇のノリによる現代劇に大映ドラマのルーツを求めている。また大映では、生みの母と育ての母と娘との関係を描く母物映画と呼ばれる映画を31本制作しており、大映ドラマの出生の秘密を巡るパターンもここにあるという<ref>[[小林信彦]]「「大映テレビの研究」批判」『コラムは笑う エンタテインメント評判記 1983-1988』[[筑摩書房]]、1989年</ref>。
 
一方、当時の大映テレビ作品を野添和子とともにプロデュースしていた春日千春は発想の原点を幼少時に親しんだ[[講談本]]や[[紙芝居]]であるとし、特徴的なナレーションは紙芝居の口上にあたるものと語っている<ref>大野宏「「赤い疑惑」 百恵主演、大映テレビ調の代表作」『テレビ番組の40年』[[読売新聞]]芸能部編著、[[日本放送出版協会]]、1994年、p262-p267</ref>。
 
1980年代後半以降はこうした過剰な演出の大映ドラマはかつてのような高視聴率を得られなくなり、その後は「大映ドラマ」と言えるまでの独特な演出は行われていない。
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従来の映画会社や独立プロダクション系列の製作ドラマが、まだフィルム撮影に固執していたなかで、大映テレビは[[1984年]]の『[[青い瞳の聖ライフ]]』でいち早くビデオ撮影に着手し、1990年から1991年まで放送された『[[スクール☆ウォーズ#スクール・ウォーズ2|スクール・ウォーズ2]]』を最後に連続ものにおけるフィルム撮影から撤退している。
 
また、音楽作曲家の[[菊池俊輔]]は大映テレビ作品の劇伴を多く手掛けており、大映テレビ作品の常連音楽家となっている。
 
== 所属スタッフ ==