「八咫鏡」の版間の差分
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『[[古事記]]』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて鍛造させたと記されている。
『[[日本書紀]]』には、別の名を'''真経津鏡'''(まふつの かがみ)ともいうと記されている。単に'''[[神鏡]]'''(しんきょう)または'''宝鏡'''(ほうきょう)とよばれることも多いが「神鏡」や「宝鏡」という言葉は普通名詞であり、八咫鏡だけをさすとは限らないので注意が必要である。
[[咫]](あた)は円周の単位で、0.8
| last=三原邦夫
| title=八咫の鏡について
| journal=月刊しにか
| volume=120
| year=2000
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}}</ref>が、桶代(御神体の入れ物)の大きさから考えてもっと小さいはずであり、「八咫(やた)」は単に「大きい」ということを表しているだけで具体的な数値ではないという説もある。
本来は祭祀に用いる鏡を表す一般[[名詞]]であったものが、後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。八咫鏡は[[伊勢神宮]]のものと皇居のもの(形代)との2つがある。
=== 伊勢神宮の八咫鏡 ===
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=== 宮中賢所の八咫鏡 ===
形代の鏡は、宮中の[[賢所]]に奉置されていたことから、'''賢所'''(かしこどころ)などともいう。そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」というか、またはその通称である「内侍所」といって、これを呼び分けたという。しかし後世になると内侍所も神鏡のことを指す言葉となった。内侍所の神鏡は[[天徳 (日本)|天徳]]4年([[960年]])、[[天元 (日本)|天元]]3年([[980年]])<ref>[http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/07/pub_shiryo-01-18.html 大日本史料 第一編之十八] [[東京大学史料編纂所]]</ref>、[[寛弘]]2年([[1005年]])に起こった内裏の火災により焼損している。天元の際に半ばが焼失し、鏡の形をとどめないものとなった。寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に[[勘文]]を提出させた。翌寛弘3年7月には[[一条天皇]]御前で公卿会議が行われ、[[左大臣]][[藤原道長]]が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった<ref>[[大津透]]「道長と宮廷社会 日本の歴史06」[[講談社学術文庫]] (2009年) ISBN 978-4062919067、215-216p 原田大六によれば「焼失して作り直された現在の八咫鏡は、桶代(御神体の入れ物)の大きさから直径46.
== 神話 ==
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== 考古遺物 ==
福岡県糸島市にある遺跡「[[平原遺跡]]」において出土した直径46.
「[[大型内行花文鏡]]
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== 参考文献 ==
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* [[レガリア]]
* [[賢所乗御車]] - 八咫鏡を移すための専用車両
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