「ジュール・ゲード」の版間の差分

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==略歴==
[[パリ]]の[[サン=ルイ島]]に生まれる。内務省の事務員として働くが、[[1870年]]に勃発した[[普仏戦争]]の時には[[モンペリエ]]で『Les Droits de l'Homme』誌を編集し、[[1871年]]には[[パリ・コミューン]]を支持したため刑事訴追され[[ジュネーヴ]]へ亡命する。そこでフランスの情勢について[[カール・マルクス]]の書いた記事を読み、感銘を受ける。[[1876年]]に帰国して週刊紙『エガリテ Égalité』を創刊・編集した。そのほかに『Le Cri du peuple』『Le Socialiste』などの雑誌も発行。[[1878年]]にはフランスのマルクス派の代表として[[第一インターナショナル]]に参加し、6ヶ月投獄されている。[[ポール・ラファルグ]]とその義父マルクスと密接に連携し、「[[集産主義]]」を標榜する[[フランス労働党 (POF)|労働党]]の綱領を執筆、[[1880年]]の[[ル・アーブル]]大会で承認を得て正式に結党した。しかし、翌年の[[ランス (マルヌ県)|ランス]]会議では選挙の失敗を受けてゲードらの提出した非妥協的な綱領は、ブノワ・マロンやポール・ブルスなどの「[[ポッシビリズム|ポッシビリスト]]」によって挑戦されている。[[サンテティエンヌ]]会議で双方の立場の違いが明らかになり、ブルジョワ政府への協力を拒否するゲードは改良主義に対抗するグループを形成、ポッシビリスト派や[[ルイ・オーギュスト・ブランキ#思想|ブランキスト]]などと論争を展開した。
 
ゲードの主義は北部と[[パ・ド・カレー]]の鉱業地帯で地盤を得た。[[1893年]]には[[リール (フランス)|リール市]]から下院に選出され[[1921年]]まで活動し[[キリスト教社会主義]]や急進派をしのぐ勢力を保つ。[[1899年]]、保守派の[[ピエール・ワルデック=ルソー|ルソー]]内閣に社会主義者[[アレクサンドル・ミルラン|ミルラン]]が入閣すると、ゲードはこれを批判、[[1901年]]には入閣反対で立場を同じくするブランキスト系の[[エドゥアール・ヴァイヤン]]([[:en:Édouard Vaillant|Édouard Vaillant]])率いる[[革命的社会党 (フランス)|革命的社会党]]と合同し[[フランス国社会党]]を結成した。さらに[[1904年]]、[[第2インターナショナル]]の[[アムステルダム]]大会でゲードは社会主義者の入閣を弁護する[[ジャン・ジョレス]]を批判し、ミルランが内閣に入ることでフランスの社会主義者は政府の軍事予算や帝国主義の全機構を是認することになってしまったと論じ、各派の賛同を得た。この結果、大会が社会主義者の入閣を否定する声明を採択したため、ゲードはジョレスら穏健派と合同し[[1905年]]の[[フランス社会党 (SFIO)|フランス社会党]]の創立に参加した。