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{{otheruses|戦国武将の京極高広|江戸時代の大名|京極高広}}
'''京極 高延'''(きょうごく たかのぶ、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[北近江]]の[[戦国大名]]。仮名は六郎。名は'''高広'''、'''高明'''とも。父は[[京極高清]]、母は[[斎藤妙純]]の娘。[[京極高吉|高吉]]の兄。[[京極高弥|高弥]]・[[京極高成|高成]]の父。
 
== 概要 ==
弟の高吉とは仲が悪く、父も弟に家督を譲ろうとしたため、[[大永]]3年([[1523年]])、父に反発した[[浅見貞則]]や[[浅井亮政]]、[[堀元積]]ら[[近江国|近江]][[国人]]衆に擁立され、父と弟を[[尾張国|尾張]]に追い落とし、[[京極氏]]当主となった。しかし、実権は浅見貞則に握られており、大永5年([[1525年]])に浅井亮政が高清と和睦して貞則を追放、この機に乗じた南近江の[[六角定頼]]に亮政の居城[[小谷城]]を攻められるなど、地位は安定していなかった。
 
他にも、[[享禄]]元年([[1528年]])に[[上坂信光]]に擁立された高吉と対峙、享禄4年([[1531年]])、[[畿内]]の戦乱に連動して[[細川晴元]]を支援したため[[細川高国]]側の六角定頼に敗れたりしたが、[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])に定頼と和睦、翌年に小谷城で高清と共に小谷城で亮政の饗応を受けた。天文7年([[1538年]])に父が死去、家督を継いだ。直後に挙兵した定頼と高吉の軍勢と戦ったが、天文10年([[1541年]])、亮政に対して挙兵した。亮政の子[[浅井久政|久政]]とも対峙したが、天文19年([[1550年]])に和睦した。以後は[[三好長慶]]と連合、定頼の子[[六角義賢|義賢]]と戦ったが、天文22年([[1553年]])に六角軍に敗北した後は消息不明となる。
 
子の[[京極高成|高成]]は[[足利義昭]]の近習として室町幕府に最後まで仕えた。
 
== 参考史料 ==