「鈴木孫一」の版間の差分

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また、重朝よりも前の世代の「鈴木孫一重秀」は「サイカノ孫一」(『言継卿記』)、「さいかの孫市」(「真鍋真入斎書付」)として史料に出てくることもあるが、これは「尾張の信長」等の類例の他称と考えられ、本人の自著でも書状の宛所でも「雑賀孫市」はない。更に言えば、彼の戦友の[[佐武伊賀守]]の覚書や信長・顕如・頼廉の書状など、彼と関係の深かった人間による表記は「鈴木孫一」である<ref>鈴木同著、pp.130-1</ref>。
 
また、[[鈴木氏]]の[[家紋|定紋]]が[[八咫烏]]であるため、とある書物によると、孫一は自身の[[火縄銃]]に「ヤタガラス」と命名している{{要出典|date=2009年8月}}
 
[[和歌山県]][[和歌山市]]平井の[[蓮乗寺 (和歌山市)|蓮乗寺]]内に孫一の墓と伝わるものがあり、法名は「釋法誓」(墓碑には「天正17年(1589年)5月2日」とある)<ref>「雑賀住平井孫市郎藤原義兼」と記されている。しかし、雑賀鈴木氏は穂積姓を称しているので藤原姓を名乗るこの人物とは別人である可能性も高い。</ref>。[[三重県]][[熊野市]]には孫一終焉の地として供養塔がある。こちらの法名は「釋広徳」。