「ベルナール・フォントネル」の版間の差分

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m →‎初期の著作: 「旧教」という呼称はプロテスタント側からのもので、時に侮蔑的なニュアンスを含み、公平な視点に立ったものとはいえない
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まず[[詩|詩作]]を試み、[[アカデミー・フランセーズ]]の懸賞に何度となく応募するがすべて落選。たびたびパリを訪れ、[[アベ・ド・サン=ピエール]]、[[アベ・ヴェルトー]]、数学者の[[ピエール・ヴァリニョン]]らの知遇を得る。コルネイユらの後押しを受けて劇作家になることを夢みるが、[[1680年]]に初演された自作の悲劇『アスパール』が酷評される。[[1688年]]の『牧歌詩集』も不評。[[1689年]]初演のオペラ『[[テティス]]と[[ペーレウス]]』はヴォルテールらの絶賛を浴びたが、興行的には同じく失敗に終わり、劇作家としては芽が出なかった。
 
フォントネルが文学的名声を確立したのは何よりもまず1683年の著作『新・死者との対話』によってである。[[1685年]]に匿名で出版された『騎士エル……氏への恋愛書簡』は軽妙な筋立ての小咄を集めたもので、これもすぐさま注目を集めた。1686年に彼は『アジャオ人物語』の中で、[[ローマ]]([[カトリック会|カトリック]])と[[ジュネーヴ]](新教[[プロテスタント]])との宗教対立を、二人の登場人物ムレオ王女(Mreo=Romeの[[アナグラム]])とエネグ王女(Eenegu=Geneve)の対立に仮託し、宗教問題に果敢に発言してみせた。
 
[[1686年]]に現れた『世界の複数性についての対話』は、フォントネルの名声をますます確かなものにした。この本は架空の侯爵夫人と「私」との対話という形式を借りて、[[宇宙]]とは何かについて詳細に述べたものである。「それは本当に大きい宇宙で、私はその中で自分を見失ってしまいますわ。もうどこにいるかも分からず、私なんてもう何ものでもないのですわ」。<!--英語版ではここまでが引用されているが、この本の全体の内容の要約としては不適切である。-->フォントネルは、コペルニクスの地動説に対して当時の人々が感じた不安を以上のように要約し、それが杞憂にすぎないことを主張している。「私は却ってゆったりした気分になりますよ。この天蓋に無限の広がりと深さが与えられ、それが数かぎりない渦動に分かれた今、私は自分が一層自由に呼吸できるように思います」([[赤木昭三]]訳)。フォントネルはその後長きにわたって王立科学アカデミーのリーダーになるが、このように小説という形式を借りて科学知識を提供したために、自然学に親しみのない人々でも当時の自然学の進歩を実感することができた。これによってフォントネルは[[ルネ・デカルト|デカルト]]の天文学理論を普及させようとした。フランスでは18世紀中頃にニュートン学説が普及するまで、デカルトのいわゆる「[[渦動説]]」が有力だったが、フォントネルのこの書物は渦動説の普及に大きく貢献した。