「牧野の戦い」の版間の差分

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『[[史記]]』によれば殷末の紂王は凶悪な暴君として知られ、重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに生贄として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようになった。また、殷末期には外征も行われ、諸侯は次第に殷を倒す密議をするようになった。
 
紂王はこれを知って怒り、ある日密議に加わった諸侯らを偽って招き、殺して塩漬けにした。周の君主である[[文王 (周)|西伯昌]]は篤実な性格でこの密議には加わっていなかったが、紂王に疑われて奴隷とされた。さらに紂王は殷の人質となっていた西伯昌の長男[[伯邑考]]を羹(あつもの、スープのこと)にして西伯昌に食べさせた。西伯昌の家臣たちが紂王に莫大な贈物をしたので西伯昌の疑いは晴れて解放されたが、西伯昌はこれを恨んで殷に復讐する決意を固めた。
 
西伯昌は周に戻ったのち、近隣の諸国を併呑して国力を増大させ、さらに殷に恨みをもつ諸侯たちの間に手を回して次第に殷に対抗できるだけの力を持つに至った。しかし、老齢の西伯昌は殷との対決を目前にして亡くなってしまう。
 
#占いによって殷を滅ぼすのが不吉と出た。
#諸侯の力を借りてあまりに素早く殷を滅ぼしてしまうと、周が王朝を開いた時に諸侯の力が強くなりぎると考えた。
 
などの理由が推測されている。
 
== 牧野の戦い ==
数年後、発はまたしても軍を発して殷を攻めた。この際には様々な瑞兆があったとわれている。周軍は[[孟津県|孟津]]という港から[[黄河]]を渡ろうとしたが、雷雨と暴風に邪魔されて河を渡ることが出来なかった。発は怒り、[[河伯|黄河の神]]に向かって「[[天命]]すでに下ったのだ。どうしてわたしの邪魔をするのか」と大喝すると嵐はやみ、周軍は河を渡ることが出来できた。また、河を渡る船の中に白魚が飛び込んできた。白は殷のシンボルカラーである。
 
周軍と殷軍は殷の首都[[朝歌]]に近い牧野というところで決戦することになった。『史記』周[[本紀]]によれば今回は殷の準備も万全で70万という大軍を動員した。対する周軍は諸侯の軍を加えても40万である。決戦の前はまたしても雷雨がとまらなかったが、発は殷の[[湯王]]が[[夏 (三代)|夏]]の[[桀|桀王]]を破って王朝をひらいた{{仮リンク|鳴条の戦い|zh|鸣条之战}}においても雷雨がとまらなかったといわれていることから、むしろこれは周が勝って王朝をひらくという前触れであると言って全軍を勇気けた。
 
殷軍は数の上では遥かに優勢であったが、その数は戦場にて不吉を祓うための[[神官]]を含んでいるうえに、殷に服属している小諸国の軍や、奴隷兵からっていた。彼らも暴虐な紂王の支配に嫌気がさしていたので、戦いの途中で矛先を変えて襲い掛かったので、殷軍は壊滅した。
 
==事後==
周軍は紂王を追って[[朝歌]]まで攻め入った。紂王はもはやこれまでと覚悟を決め、王宮に火を放って死んだ。発は紂王の遺体に三本の矢を放ってから[[まさかり|鉞]]で首を落としたとう。『[[尚書]]』牧誓によれば、この日の[[干支]]は[[甲子]]であると記され、出土した[[青銅器]]銘文でも確認されている。ここに600年に及んだ殷王朝は倒れ、発は周王朝をひらいた。
 
牧野の戦いは文献によれば大規模な大軍同士の戦闘とされるが、青銅器銘文や[[甲骨文]]においては「大邑商に克つ」と記されたものがあり、戦闘は殷の邑を先制して周が襲撃したものであるとも考えられている。
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