「今井重幸」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
福の神 (会話 | 投稿記録)
UmaPhoto (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
18行目:
[[1946年]](昭和21年)、13歳。独学で本格的に作曲を始める。同年、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]の『[[春の祭典]]』をラジオの[[進駐軍]]放送で聴いて衝撃を受ける。同年、旧制東京都立青山中学校(現・[[東京都立青山高等学校]])に転校。週1、2回、同校に非常勤講師として来ていた[[声楽家]]の[[畑中良輔]]の授業を受け、さらに畑中に個人レッスンを受けるために彼の自宅に通う。2年生のとき、青山中学でクラブ活動が解禁されたのを機に、自ら音楽部を創設する。同部では編曲・指揮のほか、合唱団を組織し、他校の音楽部との合同演奏会を企画するなどの活動を行なう。今井の[[プロデューサー]]としての才能の萌芽がここに見出せる。
 
その頃、1年先輩でラグビー部に所属していた[[池野成]]をピアノ伴奏役に抜擢した。今井と池野との交友はその後58年にも及んだ。また、5年上の[[小杉太一郎]](のちの作曲家)や、同校で演劇部を創設した1年上の[[小池朝雄]](のちの[[文学座]]俳優)とも友好を深めた。小池とは青山中学時代にすでに演劇作品の劇音楽で組んでいる。
 
[[1947年]](昭和22年)、14歳。エドガー・ヴァレーズの『[[イオニザシオン]]』([[1931年]]作)を進駐軍放送で聴いたのをきっかけに、さらに創作意欲が高まり、作曲家を志すことを決意する。父・重夫は今井の作曲家志望を黙認したが、母・ひさは「[[河原乞食]]の真似事などして」と大反対だったという。
339行目:
* La Nouvelle Chanson de IMAI SHIGUEYUKI I(2008年)
* フルート、ファゴット、エレクトーンの為の「青峰悠映」-序奏と田園舞-(1989年版の改訂 / 2009年)
* La Nouvelle Chanson de IMAI SHIGUEYUKI II(2009年)
* 室内アンサンブルの為の組曲「時は静かに過ぎる」(2009年)
* テルミンとハープ(又はピアノ)の為の「小さなロマンス第二番」(2010年)
377行目:
== 脚注・参考文献 ==
=== 脚注 ===
{{Reflist}}
<references />
 
=== 参考文献 ===