「ライネル・デ・グラーフ」の版間の差分

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==生涯==
Schoonhovenで生まれた。[[ユトレヒト大学]]と[[ライデン大学]]で医学を学んだ。教師の一人は、[[フランシスクス・シルヴィウス]]であり、同時期の学生にヤン・スワンメルダムや[[ニコラウス・ステノ|ニールス・ステンセン]]や[[フレデリクス・ルイシ]]らがいる。膵臓の研究を行った後、フランスへ行き、[[アンジェ]]の大学で医学の学位を取得した。パリで、生殖器の研究に転じ、1668年の研究結果を出版した。1667年にオランダに戻り、[[デルフト]]に住んだが、[[リック教会|カトリック]]であったので、オランダでは教授職につくことはできなかった。32歳で早逝し、自殺説もあるがその死についてはほとんど知られていない。
 
1673年に、[[アントニ・ファン・レーウェンフック|レーウェンフック]]の顕微鏡について[[王立協会]]に報じているが、グラーフは解剖学への顕微鏡の応用にいたっていなかったと考えられている。ヒトの生殖器の解剖学に功績があり、[[グラーフ卵胞]]は彼にちなんで命名されている。卵巣内の卵胞の発見や、子宮外妊娠の観察を報告し、[[卵管]]の機能を説明した。卵管留水腫などについて記述した。