「正倉院」の版間の差分

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[[Image:Kokka Chinpoh Choh Shosoin.JPG|thumb|200px|right|<small>献物帳 国家珍宝帳 冒頭</small>]]
 
[[756年]]([[天平勝宝]]8歳)、光明皇后はである聖武天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を[[東大寺]]の廬舎那仏([[大仏]])に奉献した。その後も光明皇后は3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献している。これらの献納品について、現存する5種類正倉院に納められた。献納品目録である東大寺献物帳」と呼ばれる文書もまた正倉院目録が記保管されている。これらの宝正倉院に収め五巻かなり、そぞれ国家珍宝帳、種々薬帳、屛風花氈帳、大小王真跡帳、藤原公真跡屛風帳と通称されている
 
正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分される。
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「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは[[藤原仲麻呂の乱|藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)]]の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。また[[大仏開眼]]の際に聖武天皇・光明皇后が着用した冠など、何らかの事情で破損した宝物も存在するが、その破片が所蔵されている場合もある(礼服御冠残欠などの残欠)。
 
国家珍宝帳に記された献納品には後の時代に持ちだされたことを示す除物の付箋が付けられたものが7点(封箱、犀角蕆、陽寶劔、陰寶劔、黄刀、黒作懸佩刀、挂甲)ある。このうち光明皇后が死去する半年前の759年12月の日付が付された陽寶劔と陰寶劔は、献物帳にある太刀100本の筆頭に記されていたが、その後の行方は判明していなかった。1907年(明治40年)に行われた修理の際に盧遮那仏須弥壇から二振りの太刀や水晶、鎧の一部などが発見され「東大寺金堂鎮壇具」として国宝に指定された。2010年に元興寺文化財研究所がこの太刀のX線撮影をおこなったところ、刀身から「陽劔」「陰劔」の文字が発見され、国家珍宝帳に記されていた陽寶劔と陰寶劔であることが確認された。専門家の間では光明皇后が国家の平安を願って埋納したものであると考えられている。陽寶劔と陰寶劔は東大寺ミュージアムにおいて展示されている。
 
正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の扉の開封には[[勅使]]([[天皇]]からの使い)が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の[[署名]]入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは[[室町時代]]以降であるが、[[平安時代]]の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封([[東大寺]][[別当]]らの寺僧組織が管理する)に改められた。[[1875年]](明治8年)、正倉院全体が[[明治政府]]の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。