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== 生涯 ==
大永7年(1527年)、畠山政国の嫡男として生まれる。父・政国と、11代将軍[[足利義高]](のちの義澄)よりそれぞれ[[偏諱]]を賜い、'''高政'''と名乗る。
 
[[天文 (日本)|天文]]15年([[1546年]])に[[三好政長]]と[[摂津国|摂津]]の[[舎利寺の戦い]]で、父の援助を受けて勝利した。しかし天文17年([[1548年]])、[[三好長慶]]の反撃を受けて敗れ、長慶と講和を結ばざるを得なくなった。天文19年([[1550年]])に父の死で[[家督]]を継ぐ。
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永禄4年([[1561年]])、[[細川晴元]]の次男[[細川晴之]]・[[六角義賢]]と共に京都に進軍し、一時的に長慶を京都から追い出すことに成功する。永禄5年([[1562年]])3月5日には[[久米田の戦い]]で、長慶の弟である[[三好義賢]]を討ち取るという大戦果を収めて、高屋城を奪還する。しかし、続く5月20日の[[教興寺の戦い]]で敗れ、河内における支配権を失い、紀伊に後退した。
 
永禄9年([[1566年]])5月、長慶没後にその後を継いだ[[三好義継]]と和睦し高屋城に戻った。13代将軍[[足利義輝]](義澄の孫)が討たれると、義輝の実弟である[[足利義昭]](当時は義秋)を支持し、将軍にするための援助を続けた。永禄11年([[1568年]])には上洛してきた義昭および[[織田信長]]に従い、三好氏に奪われていた旧領の一部も安堵され、畠山氏の繁栄を図った。しかし主家を傀儡化しようと企んでいた重臣の[[遊佐信教]]によって永禄12年([[1569年]])に河内から追放され、紀伊に移った。
 
天正元年([[1573年]])に弟の[[畠山昭高]]が信教に殺されると挙兵し河内に進攻したが、敗北し紀伊に後退する。天正3年([[1575年]])に信長によって高屋城は破却された。