「オーラヴ5世 (ノルウェー王)」の版間の差分

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|戴冠日 =[[1958年]][[6月22日]]、於[[ニーダロス大聖堂]]
|別号 ={{Lang|no|Olav}}<br />オーラヴ
|全名 ={{Lang|da|Alexander Edward Christian Frederik}}<br />アレクサンダーデル・エズワドヴァ・クリスチャン・フレゼリク
|出生日 ={{生年月日と年齢|1903|7|2|no}}
|生地 ={{ENG}}、[[ノーフォーク]]、[[w:en:Sandringham House|サンドリンガム・ハウス]]
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== 生涯 ==
当時[[デンマーク]]王子カールであった[[ホーコン7世]]と、[[イギリス]]王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の娘[[モード (ノルウェー王妃)|モード]]の長男としてイギリスで生まれ、アレクサンデル・エドヴァ・クリスチャン・フレゼリク(Alexander Edward Christian Frederik)と名付けられた。1905年に父がノルウェー王に選ばれ、ノルウェー風に[[ホーコン]]と改名した際に、同じくノルウェー風に[[オーラヴ]]と改名された。以後オーラヴは[[推定相続人|第1王位継承権者]]としてノルウェーで育てられた。
 
1924年にノルウェー陸軍士官学校を卒業した後、[[オックスフォード大学]][[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]で法律学と経済学を学んだ。1929年にスウェーデン国王[[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]の三男[[カール (ヴェステルイェートランド公)|ヴェステルイェートランド公カール]]の次女で、父方の従姉にあたる[[マッタ・アヴ・スヴェーリエ|マッタ]]と結婚した。2人の間には[[ラグンヒル (ノルウェー王女)|ラグンヒル]]、[[アストリッド (ノルウェー王女)|アストリッド]]、[[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル5世]]と1男2女が生まれた。
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アスリートとしても知られ、1928年の[[アムステルダムオリンピック]]では[[ヨット|セーリング]]で[[金メダル]]を獲得している。また、スキージャンプも行っていた。
 
[[第二次世界大戦]]中は父王とともにイギリスに亡命しつつ[[ナチス・ドイツ]]に抵抗し、ノルウェーの解放後に帰国した。1957年、父の死去により王位を継承した。即位した後はその誠実な性格から「国民の王」として庶民から愛された。オーラヴ5世は国王であるのにもかかわらず自分で自動車を運転することを好み、自分で公道を運転してスキー場に向かう姿などが良く見かけられた。
 
しかし1973年の[[オイルショック]]の時、ノルウェー国民は特定の週末は運転禁止と定められてしまった。それらの週末でも王族は運転する事可能あったものの、自らが国民の模範でないといけないあるべき念を持っていた王は運転禁止期間中にスキー場に向かう時は普通の国民と同じようにスキーウェアを着用し、スキー板を自分の肩に担ぎ、公共鉄道を利用してスキー場に向かった。そういった時もオーラヴ5世は[[ボディーガード]]をつけないことで知られており、後に「なぜ、警護をつけないのですか?」とマスコミに問われた時「400万人のボディガード(当時のノルウェーの人口、すなわちノルウェー国民全員)がいたからね」と誇らしく答えた。
 
1968年、スキー界の発展に影響を及ぼした人物として[[ホルメンコーレン・メダル]]を受章した。