「ルー・テーズ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
6行目:
{{ハンガリー人の姓名|ティヤシュ|ラヨシュ}}
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2010年6月}}
* [[1916年]][[4月24日]] - [[ミシガン州]][[バナット]]にて[[オーストリア・ハンガリー帝国]]からの[[ハンガリー人]]移民の靴修理工で[[アマチュアレスリング|レスリング]]選手でもあった、父・ティヤシュ(あるいはティザ)・マールトン(Tijas (Tiza) Márton)と、[[ドイツ人]]移民の母との間に生まれた。生誕時の名はティヤシュ(あるいはティザ)・ラヨシュ(Tijas (Tiza) Lajos)でテーズの他に3人の姉妹がいた。テーズが2歳の時に一家は[[ミズーリ州]][[セントルイス]]へ移り住み、ハンガリー系アメリカ人らしくセッズ家(Thesz 、ハンガリー語の姓セッズ(Thész)より)に改名。幼い頃より父親(改名後はマーティン・セーズ(Martin Thesz))から[[グレコローマンスタイル]]のレスリングの手ほどきを受けて育つ。また、8歳頃には父親に連れられてしばしばプロレス観戦に出かけていた<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.21-26.</ref>
* [[1933年]]9月 - 16歳でミズーリ州セントルイスのハリー・クック・アリーナでジョン・アンダーソンとプロレスデビュー戦、引き分けた。若い頃よりスター選手に会う機会に恵まれ、ファーマー・バーンズ、フレッド・グラブマイヤーらに遭遇している<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, p.80.</ref>
* [[1936年]] - ミズーリ州セントルイスの[[ジム]]にて[[エド・ルイス|エド"ストラングラー"ルイス]](後年専属[[マネージャー]]へ)と出会い、スパーリングも行<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.81-87.</ref>
* [[1937年]]1月 - 当時新聞記者だった[[サム・マソニック]]に出会う。マソニックは熱心なプロレスファンでもあり、30日間にわたりテーズの特集を組んだ。これを機にテーズは一気に知名度を上げる。なお、マソニックはのちに新[[NWA (プロレス)|NWA]]立ち上げの中心人物となり、テーズとはプロモーターとプロレスラーの関係でNWAを発展に導いている<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.106-107.</ref>。
* [[1937年]]12月29日 - [[エベレット・マーシャル]]を破り、21歳でMWA世界ヘビー級王者となった(ミズーリ州セントルイス)。1938年1月25日AWAの世界王者認定。
* 1937年12月29日 - [[エベレット・マーシャル]]を破り、21歳でMWA世界ヘビー級王者となった(ミズーリ州セントルイス)。1938年1月25日AWAの世界王者認定。当時、[[アリ・ババ]]やエベレット・マーシャルなど、概ねキャリア10年程度、30歳前後で世界王者に就くのが慣例であり<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, p.106.</ref>、テーズの世界王者奪取は異例の早さであった。しかし1月の防衛戦で耳を負傷し、トレーニングも出来ないまま挑んだ2月11日のスティーブ・ケーシー戦に敗れて王座転落<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.107-108.</ref>。
* [[1939年]]2月23日 - ミズーリ州セントルイス(あるいは[[コロラド州]][[デンバー]])でエベレット・マーシャルを破り、[[NWA世界ヘビー級王座|NWA世界ヘビー級王者]](旧[[NWA (プロレス)|NWA]])となった。
* 1939年6月23日または7月19日 - [[テキサス州]][[ヒューストン]]で[[ブロンコ・ナグルスキー]]に敗れNWA王座から陥落。この際に左膝を負傷し、約1年にわたる長期欠場を余儀なくされる。なお左膝は生涯テーズの古傷となり、70歳で右臀部を手術したのも、左膝を庇う行動を長年続けてきたためだと述懐している<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.122-123.</ref>
* [[1943年]] - [[アメリカ合衆国陸軍]]に入隊、体育教官となった。テキサス州ヒューストン駐屯地で約4年間過ごした。この際もプロレス興行は継続する(当時は興行売り上げの20%が軍費として徴集されるシステムとなっており、軍費獲得のためにも興行は歓迎された)<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.125-126.</ref>
* [[1946年]]9月11日 - カナダ・モントリオールでボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。
* [[1947年]]2月20日 - 同地で[[ボビー・マナゴフ]]に敗れ王座陥落。
58 ⟶ 59行目:
; [[ダブルリストロック]]
: 「[[チキンウイング・アームロック]]」とも呼ばれるが、テーズは項目表記の名にこだわる。詳細はリンク先を参照。
: これ以外にも、ジョージ・トラゴスやアド・サンテルから各種関節技を伝授され、関節技の名手としても知られた<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.90-92.</ref>。ラフファイトやシュートの際にも関節技で報復した<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.109-110.</ref>。
; テーズスペシャルスマッシュ
: 直角に曲げた手首の骨で相手を殴打する技([[空手道|空手]]の'''弧拳'''、[[日本拳法]]の'''頂拳'''に当たる)。拳ではないので当然ルール上OK。見た目以上にとてつもない痛さであるという。相手がラフファイトを仕掛けてきたときの報復に使用し、[[大木金太郎]]の額を叩き割ったこともある。また、乱闘では拳でのパンチを使うこともよくあり(テーズの拳は、サザエの殻のように堅く隆起していた)、リング上での殴り合いでは[[ダニー・ホッジ]]を除けば誰にも負けないと言っていた。
; [[ファイヤーマンズキャリー|エアプレーン・スピン]]
: 1950年代にはテーズの代名詞と言われた技。1951年の[[バディ・ロジャース]]戦、1953年の[[エベレット・マーシャル]]戦、1954年の[[タム・ライス]]戦、1957年の[[力道山]]戦、1962年の[[バディ・オースチン]]戦など、NWA世界ヘビー戦を中心に重要な試合で使われた。そのまま相手を背中から落として押さえ込むエアプレーン・スピン・[[ボディ・プレス]]は[[フィニッシュ・ホールド]]となることが多かった。
 
== 主な獲得タイトル ==
79 ⟶ 81行目:
*# [[ジョージ・ハッケンシュミット]]
** 上記はいずれも[[第二次世界大戦]]前に活躍したレスラーである。テーズの考えでは、戦争によるレスラー不足をテレビ向けの動きしかできないレスラーで補ったことが原因で、一部の例外を除いて戦後のレスラーは戦前より劣るということである。
** 上記レスラーのうち、テーズは[[エド・ルイス]]を特に尊敬しており、「20世紀最強のレスラーは私ではなく、ルイス」と述べていた。テーズは若手時代にルイスとスパーリングをする機会があったが、タックルは全てブロックされ、バックを取られて身動きを封じられるなど、全く歯が立たなかったという<ref>『鉄人ルー・テーズ自伝』, p.85, 96.</ref>。また、チャンピオン時代にはルイスを自らの専属マネージャーに招聘していた。
 
* テーズが現役時代のライバルとして挙げる5人のレスラー